【第三章】日本女子大学校の設立と女子教育2/3

女子大学校設立に向けた発起人組織づくり

炭鉱からの手紙

成瀬仁蔵の著書『女子教育』に共感し、女子大学校設立の計画に協力することを決意した浅子。その協力の方法もまた、実に「浅子らしい」ものであった。

この頃、浅子はちょうど潤野炭鉱の再開発を開始し、監督のため頻繁に九州と大阪を往復していた。この多忙のなかで、浅子が成瀬に宛てた手紙が日本女子大学に残っている。書簡の日付は、一八九六(明治二九)年六月一五日。成瀬が伊藤博文と面会し、伊藤が女子大学校設立に賛同を示したことを受け、成瀬から「発起人組織の立ち上げを目指している」と報告を受けた書簡の返信と思われる。

この書簡に書かれている内容から、協力を決意した浅子の情熱、そして発起人組織についての考えがよくわかる。

(以降、書簡や資料の内容は現代語訳にて記す)

この機に乗じ、かねての目的、計画を進めるにあたっては、発起人組織の立ち上げが急務との内容を拝見して、すぐにでも帰阪したいと思うのですが、あいにく当方、事業着炭(掘削作業により石炭を産出する炭層に行き当たること)の期に際して、本月末遅くて来月上旬まで諸々用向きがあります。そのため、本月末か、来月上旬には必ず帰阪致しますので、それまでご猶予頂けないでしょうか。

もっとも発起人組織については私もかねがね考えており、意見もございまして、その他諸々申し上げたいこともあります。しかしながら来月上旬に帰阪するのを待つことで、ご計画に差し支えがあれば問題です。この手紙が着き次第、このように電報を頂きたいと思います。

「スグキハンアリタシ」

これをお知らせ下されば、当地の用務を予めそれぞれへ指示しておき、すぐに立ち返るつもりです。ただし、その際はまた折り返し九州に行かねばならぬこととなりますので、ご承知置き下さい。(中略)帰阪の時は、私の及ぶ限りは尽力したいと思っております。

(日本女子大学所蔵「明治二九年六月一五日書簡」)
日本女子大学所蔵「明治二九年六月一五日書簡」(部分)
明治三〇年頃の浅子

この手紙からは、成瀬の計画に対する浅子のなみなみならぬ熱意が感じられる。実際、浅子は帰阪後すぐに成瀬と行動を開始する。それは書簡にもあった、女子大学校設立の計画に賛同するとともに寄付金を提供してくれる「発起人組織の立ち上げ」であった。

順調に進む発起人組織づくり

日本女子大学に所蔵されている『日本女子大学校創立事務所日誌』。この記録は、浅子が炭鉱から手紙を送った直後の一八九六(明治二九)年七月から始まっている。その冒頭、成瀬の名とともにいきなり浅子が登場する。手紙で「私の及ぶ限りの尽力」と書いた浅子の行動は、始めから全開だった。

七月十七日(金)

新田氏この日より出勤執務開始。成瀬・広岡両氏神戸に行く。

『創立事務所日誌』冒頭ページ

さらにこれ以降も、『創立事務所日誌』には浅子の名前が頻繁にあらわれる。

七月二十五日(土)

広岡夫人、大阪造幣局長・長谷川為治氏の元に行く。

要件、局長ヘ女子大学校設立賛成員承諾の勧誘。


八月十一日(火)

広岡夫人、女子大学用にて大和大瀧村(現在の奈良県川上村)土倉庄三郎君ヘ行く。新田同伴。

八月二十日(木)

広岡夫人、下田歌子ヘ面会のため須磨に行く。即日帰阪。

浅子自ら政財界の有力者の元を訪れて女子大学校設立の意義を説き、協力を要請していたことがわかる。浅子が訪問した人物は多岐にわたり、同年一〇月には前総理大臣である伊藤博文の元を訪れていたことが記されている。伊藤は以前にも成瀬と面会し、女子大学校設立に賛同した理解者でもあった。

十月十一日(日)

広岡御夫人、今夜十時梅田発の汽車で大阪を出発、東上される。東上の途中大磯へ立寄り、伊藤前総理大臣へ面会の予定。

この発起人組織の立ち上げには、二つの目的があった。一つ目は無論、「設立資金の募集」である。成瀬の計画では、設立に要する資金は三十万円(現在の価値で約十六億四千二百万円)と莫大なものだった。当然のことながら一人二人が協力してどうとなるものではない。そのため、広く寄付金を募集して、設立資金を集める必要があった。

そしてもう一つの目的は、「世論の醸成」である。未だ女子教育に対して懐疑的な意見が多い中、発言力のある政界の有力者の賛同を集めることで、経済界ひいては世論全体へのPR効果を発揮し、多くの協力を得られると浅子らは考えた。成瀬と浅子が発起人組織について話し合った結果が、政財界の有力者を説いて協力者を募り、大規模な発起人組織を作りあげたうえで、然るのちに寄付金募集に着手するという、実に壮大な計画だったのである。

浅子の尽力もあり、発起人組織づくりは順調に進んだ。早くも同年一一月には、東京に赴いていた浅子より、政財界の名だたる人物から協力の約束を取り付けたことが報告されている。

十一月九日(月)

東京広岡御夫人より来状(但同家宛内々)

要件

公爵 近衛篤麿 賛助員承諾

侯爵 蜂須賀茂韶 同上

   渋沢栄一  同上

   大倉喜八郎 同上

甲武鉄道会社長 三浦泰輔  同上

以上五名賛助員

伯爵   土方久元 賛成員承諾

大審院長 南部甕男 同上

文部次官 牧野伸顕 同上

     栗塚省吾 賛成員承諾

以上四名賛成員

伊藤博文

西園寺公望

大隈重信

松方正義

以上四名 是迄賛成員ノ処今般賛助員承諾

侯爵夫人 伊藤梅子

伯爵夫人 大隈綾子

以上両名発起人承諾

『日本女子大学校創立事務所日誌』(提供:日本女子大学)

広岡家を挙げての協力

また女子大学校設立には、浅子だけでなく夫である信五郎も協力し、大阪の財界有力者を勧誘したという記録が『創立事務所日誌』には記されている。

十二月九日(水)

(前略)要件、鴻池・芝川両氏に発起人勧誘について広岡御主人(信五郎のこと)がご訪問されたところ、両名はいまだ女子大学設立の件について聞いていないということで賛助員になることは承諾できないとの事、空しくご帰宅となる。(中略)広岡夫人へもご相談の上、至急何とか御主人までお返事を待つ

この信五郎の勧誘の結果は芳しくなかったが、後に鴻池・芝川両名も発起人に参加、開校までの有力な協力者となった。

また、浅子の義弟で加島屋の当主である久右衛門正秋も、賛助員を承諾している。このように浅子だけでなく、加島屋一丸となって女子大学校設立に協力していたのである。

創立披露会と大学校用地の取得

発起人組織の準備は着々と進む。翌一八九七(明治三〇)年三月二四日には、東京の星ヶ丘茶寮(東京都千代田区)で第一回発起人会、続く二五日には帝国ホテル(東京都千代田区)で創立披露会を開催し、女子大学校を設立する計画を公式に発表した。そして五月には大阪でも発起人会と披露会が開かれ、大隈重信や近衛このえ篤麿あつまろらを来賓として総勢三百四十名の政財界の有力者が、現在の大阪市中央公会堂(大阪市北区)の付近にあった大阪中之島ホテルに参集した。

この間、浅子が成瀬と出会って一年も経過していない。

さらに女子大学設立に向けて大きな前進があった。それは学校設立のための用地の取得である。

同年六月一日付で、土地購入代金相当額約二万四千円(現在の価値で約一億二千万円)を成瀬仁蔵名義で加島銀行から借受けている。引受証人(保証人)は広岡浅子。この資金で購入した土地は、別の資料から「清水谷」(大阪市天王寺区)であったことが明らかになっている。『日本女子大学校四拾年史』にも「当初は大阪の清水谷に土地を購入し……」とあるため、この時の女子大学構想では大阪に開校する前提で計画されていたことがわかる。

ちなみに、この設置場所は後に東京で開校することに変更され、この購入した土地は大阪府が買取り、この地に大阪府第一高等女学校が設立される。現在の大阪府立清水谷高等学校の前身である。

このように、発起人組織づくり、そして大学校の用地取得、全てのことに浅子は協力を惜しまなかった。その成果も順調で、大学校の設立も目前と思われた。しかし、大きな問題が立ち塞がる。

〈主な参考資料〉

日本女子大学校創立事務所日誌(一八九六年)

日本女子大学校四拾年史(一九四二年)

日本女子大学成瀬記念館 広岡浅子関係資料目録(二〇一六年)