【第四章】大同生命の誕生とその後の浅子1/3

生命保険事業 ―― それはまさに広岡浅子が生涯追い求めた理念と合致したものであった。浅子が生命保険事業に託したものとは。そしてすべての事業から退いた彼女が情熱を注いだものとは。

生命保険業への進出

一八九九(明治三二)年初頭。銀行や炭鉱の経営に取り組む一方、「平民主義」(前章参照)を掲げて加島屋の事業改革を進めていた広岡浅子。日本女子大学校の設立運動にも尽力し、実業家として最も多忙だったこの時期の浅子に、ある相談事が舞いこんでくる。それは、加島屋当主・広岡久右衛門正秋が門徒総代格として深い関係にあった、浄土真宗の関係企業「真宗生命」からの経営支援要請だった。

真宗生命

明治二〇年代後半から三〇年代初頭にかけて、日清戦争の勝利がもたらした好景気による「企業勃興ブーム」は、当時まだ新しい事業だった生命保険業も例外ではなかった。当時は保険会社を規制する法律がなく、設立も容易であったため、相次いで生命保険会社が設立された。一八九三(明治二六)年にはわずか四社であったが、一八九七(明治三〇)年までの五年間で実に三十二社もの会社が誕生した。(竹森一則編『本邦生命保険業史』)。さらに「類似保険会社」と言われる会社にいたっては、数百を超えたと言われている。

(小林惟司「明治期の佛教生命保険事業――とくに明教保険株式会社をめぐって」)

真宗生命もこの生保乱立期にあたる一八九五(明治二八)年に、本社を名古屋において開業した。「真宗」という名称からも明らかなように、二万を超える真宗寺院、二百万戸の信徒を有する浄土真宗を基盤とし、各宗派本山から信徒への通達や、各地の名士門徒の募集による加入を狙いとした生命保険会社である。

真宗生命は、設立当初は本山との連携もあり順当に滑り出したものの、過度な募集競争といたずらな拡張路線により、経営は次第に悪化していった。そうした中、一八九八(明治三一)年に経営陣を刷新したことで、一時は経営改善の兆しを見せる。しかし一宗派を背景に発足したことも原因して、「真宗」の名が逆に募集対象を狭めることとなり、自力での挽回は既に不可能な情勢となっていた。

一八九九(明治三二)年、真宗生命の経営陣は、生命保険事業の性質上、またこれまでの経緯からも、「社会的信用の回復」こそが先決と考えた。その結果、江戸時代以来二五〇年の歴史と名望を持ち、かつ西本願寺の門徒総代格としても長年の友好関係があった加島屋(広岡家)に、経営支援を要請することとなったのである。

「ある一事業を計画中」

この真宗生命からの要請に対し、浅子らはどのように対応したのか。同社の案件が持ち込まれた直後の一八九九(明治三二)年四月、浅子が成瀬仁蔵に宛てた書簡の中に、次のような記述がある。

中川(小十郎)は今なお名古屋に滞在しております……(中略)……現在名古屋にて一事業を計画中でございます。毎日報告を受けて打ち合わせ、電信にて命令をしております……

(成瀬仁蔵宛書簡、一八九九年)

書簡の書かれた時期と「名古屋」という地名から、この「一事業」というのは同地に本社を置いていた、真宗生命の案件を指すものと思われる。つまりこの書簡から、浅子が中川に指示をするという形で、本件に関する内部調査と交渉を進めていたことが窺えるのである。

明治三二年四月一二日付 成瀬仁蔵宛広岡浅子書簡(所蔵:日本女子大学)

浅子らによる調査・交渉の結果、加島屋は真宗生命の株券四千株のうち六割を買収して、同社の経営権を受け継いだ。また、社長には浅子の義弟であり、加島屋当主の正秋が就任した。すなわち、浅子らは「真宗生命を支援する」という最終判断を下したのである。

なぜ生命保険事業への進出を決意したのか

ここで改めて、浅子はなぜ真宗生命の支援要請に応じたのか。後年、金融専門紙『保険銀行時報』が次のように記している。

もとより保険業が今後大いに発達して利益を生む事業となるだろうと思ったことがその一因であろうが、さらに大きな理由があったと思われる。(中略)

(記者の)考えが間違ってなければ、浅子は社会救済の理想を実現する為に、保険業に着目したのではないだろうか。世の中には種々の事業があるが、社会救済の意味を含み、人民をして生活上の安定を得させる事業が生命保険であることは、誰も否定できないだろう。(生命保険)事業の根底には、社会の幸福を増進したいという精神が存在することは、誰も疑う事はできない、浅子はこの精神に共鳴したのではないだろうか。そうでなければ、未だ保険思想が幼稚で、“保険に入れば早死にする”という迷信さえ信じられていたこの時期に、保険会社を創設する理由はないのである。

(「現代の女傑広岡浅子刀自(上)」『保険銀行時報』、一九一九年一月二七日号)

この記事で述べられている「社会公益のため」という浅子らの想いは、後の大同生命社史にも、初代社長となった正秋が生命保険事業参入を決意した理由として

生命保険事業が他の一般営利事業と異なり、相互扶助の精神を基調とする社会公益のための事業であることに強く心を動かされ、その経営に乗り出す決意をかため……

(『大同生命七十年史』、一九七三(昭和四八)年)

と記されている。浅子をはじめ、夫・信五郎、当主・正秋ら加島屋首脳に共通した想いであったのだろう。

社会公益のために生命保険事業に乗り出す加島屋。一方で、浅子が最も信頼していた部下の中川を派遣して、現在でいうデューディリジェンス(企業の資産価値を適正に評価する手続き)もしっかりと行っている。真宗生命が経営危機に陥った大きな理由に、科学的見地に基づかない経営と、「真宗」という名称ゆえのマーケティングの限界があった。恐らく浅子らは、同社の資産状況を精査した上で事業改革を進めれば、将来有望な事業となり得ると判断したのだろう。まさしく実業家・広岡浅子の本領発揮である。

事実、加島屋は真宗生命の経営権を取得した後、すみやかに改革を実践していく。一八九九(明治三二)年五月四日、まずは本社を京都市六角通麩屋町西入大黒町(現・生祥せいしょう児童公園付近)に移転して営業を開始。続いて同月二二日、社名を「真宗生命」から「朝日生命」へと改称する(注:現在の朝日生命とは異なる)。その五日後には、同社の大阪出張所を大阪市西区土佐堀裏町、つまり加島屋本家(現・大同生命大阪本社所在地)の近くに移す。

社名を変えることで「市場の制約」を撤廃するとともに、真宗生命設立を主導した門徒が多い本社(名古屋)の場所を変え、より加島屋に近い場所に拠点を移したのである。

朝日生命広告(『大同生命七十年史』より)(注:現在の朝日生命とは異なる)

こうして、加島屋の事業として新たに「生命保険事業」が加わることとなったのである。

〈主な参考文献〉

竹森一則編『本邦生命保険業史』(保険銀行時報社、一九三三年)

生命保険会社協会編『明治大正保険史料』(一九三四年)

『大同生命七十年史』(一九七三年)

『大同生命100年の挑戦と創造』(二○○三年)