【第四章】大同生命の誕生とその後の浅子2/3

三社合併による大同生命の創業

一八九九年(明治三二)年、加島屋が真宗生命の経営権を取得する形でスタートした朝日生命。社名・所在地・経営陣を刷新し、新契約高も着実に拡大していった。しかし、さらなる進展を目指していた矢先、保険業界全体に影響を及ぼす大きな転換期を迎えた。「保険業法の成立」である。

(注)本ページにおける「朝日生命」とは、特に記載がない限り現在の朝日生命とは別会社を指す。

保険業法成立とその影響

一八八一(明治一四)年、日本初の生命保険会社・明治生命(現・明治安田生命)が設立された。当時、日本では保険業に関する法規制がなかったこともあり、日本経済の発展に伴い生命保険会社が乱立する事態となったことは前頁で述べた。その流れに対し、一八九九(明治三二)年の新商法施行で初めて保険業に法規制が課せられ、さらに翌年七月には、保険業法が施行された。加えて、生命保険会社の乱立に歯止めをかけるため、監督省庁である農商務省の検査が各社に入ることになった。

一九〇〇(明治三三)年から翌年にかけて、同省保険課が生保各社の財務状況を厳しく検査した結果、杜撰な経営、具体的には責任準備金の積み立て不足や株式払込金の未払いなどを行っている会社が多く見られた。

生命保険会社では、将来、加入者に確実に保険金を支払うために、収受した保険料から一定額を積み立てておく。これが責任準備金である。本来であれば確率統計に基づく数理計算によってその額を算出すべきところ、多くの生命保険会社は十分な金額を積み立てておらず、保険料を全て収益計上し他の事業に投下するような会社すらあったという。また、設立時に株主が払うべき資金が不足しており、それを経営者が補填せずに放置している事例などもあった。

このため、農商務省は、看過できない状況の会社には営業停止処分などを行い、結果として、多くの生命保険会社が姿を消すこととなった。

一九〇〇(明治三三)年一二月、真宗生命から名を変えた朝日生命にも当局検査がはいる。そして、旧・真宗生命から繰り越された欠損金七万円(一万円は現在の価値で約四千三百十八万円。以下同様)を指摘され、加島屋が朝日生命に同額を寄付することとなった。これを契機に、今後激しくなる業界内の生存競争に打ち勝つためには、他社と合併し、財務基盤と営業基盤をより一層強化する必要があると考えたのである。

これは監督省庁である農商務省も同じ考えであった。一九〇一(明治三四)年時点で認可を受けた生命保険会社は三十九社。保険の意義・必要性が未だ十分に認識されていない時代であるにも拘らず、保険会社の数は多すぎて需給のバランスを失っているという見方であった。(『明治大正保険史料』第三巻第一編 明治三四年の項)

このような状況で当局は、多すぎる生命保険会社を合併により整理統合することで、業界全体の財務基盤を整備するという方針を示したのだった。

微力なる保険会社が個々分立し過大の費用をなげうち被保険者の募集に競争するは各自の不利益にして、その合併せん事は当局者も熱心に希望するところなり

(『明治大正保険業史 第三巻第一編』大阪朝日新聞、一九○一(明治三四)年一一月一日記事)

このような当局の方針もあって、朝日生命は他社との合併を目指し、その責任者として同社副社長の中川小十郎が指揮を執ることとなった。しかし生命保険会社の合併は前例がなく、保険料率・約款等の違い、株主や代理店への説明など、乗り越えるべき課題はあまりにも多かった。

朝日生命の合併と当時の状況

一九〇二(明治三五)年、朝日生命は、護国生命・北海生命と合併するが、当初よりこの二社との合併を直線的に志向していたわけではない。「大同生命文書」に残されている資料には、複数の保険会社と交渉していた記録がある。

合併によって事業基盤を強くしようとした生命保険会社は朝日生命だけではない。ほとんどの会社が合併を模索していた当時の状況を物語る事件を紹介しよう。

ある男が、とある生命保険会社の社長に取り入って会社の実権を掌握。農商務省が小規模生保の合併・整理を志向していることを踏まえ、同社の資金を使って別の生命保険会社の株を買い占め、一九〇一(明治三四)年二月にその会社を乗っ取る。

その男は、続けて複数の生命保険会社の株を買い占め、瞬く間に一大生命保険会社を作ることに成功する。その買収方法は、所有する会社の資本を使って株を買い占め、反対する株主にはマスコミや運動団体を雇って妨害し、半ば強引に株を買収するという悪質なものだった。

この男は、一時期は十社の買収に成功したものの、内偵を進めていた農商務省がその杜撰な経営ゆえに合併を認可しなかったことから、計画が行き詰まる。さらに司法当局の手が伸び、この男は収監され、彼が作った生命保険会社はついに一九〇五(明治三八)年に当局により解散命令が下されることとなった。

朝日生命は、こういった世間の状況を踏まえつつ、合併後もともに生命保険事業を成功させるための真のパートナーになりうるかという視点で、複数の生命保険会社に合併を打診し、交渉を重ねていく。そして、最終的にそれに応じたのは、護国生命と北海生命であった。もちろん、両社にも合併を模索せざるを得ない事情があった。

北海生命

北海生命は、男爵・北垣国道(元・北海道庁長官)、高野源之助(元会津藩士、小樽の実業家として活躍)、金子元三郎(初代小樽区長)、倉橋大介などの北海道の資産家が発起人となり、「北のウォール街」と呼ばれた小樽で、一八九八(明治三一)年に創業した。当初社長の座は空席だったものの、一九〇〇(明治三三)年に専務だった高野源之助が推されて社長に就任した。

北海道という限られた地域を営業範囲とする地方の生命保険会社としては比較的順調な滑り出しをみせたが、経済不況の影響で経営状態が悪化。農商務省による検査で資産内容の不備に関する指摘も受けた結果、一九〇一(明治三四)年には抜本的な改善が必要な状況となっていた。その改善策に苦悩していた高野は、朝日生命からの打診に応じる決断を下した。

なお、「大同生命文書」には、同年一二月二四日付の電報に「合併の件まとまる」という小樽局発信の電報が残っている。

護国生命

続いて合併する相手としては、関西を営業基盤とする朝日生命や北海道を基盤とする北海生命とエリア的に競合しない会社が望ましいことは自明の理であった。そこに、東京を基盤とする護国生命から、合併の打診が寄せられる。

護国生命は一八九六(明治二九)年に、東京で設立された。初代社長には高島嘉右衛門が就任。設立当初は知名度の高い高島や、専務の広田千秋らが陣頭指揮を執って営業を推進し、一八九九(明治三二)年には新契約高百六十四万円を誇る中堅生保に成長した。しかし一九〇一(明治三四)年三月の当局検査により資産内容の不備を指摘される。また、この年は新契約高百九十四万円に対して解約が百五十万円と、契約業績は急激に悪化する。高島に代わって社長に就任した板倉勝己のもとで再建に着手したものの、思うように改善が進まず、会社合併により難局を打開することとした。当初は別の生命保険会社と合併交渉を行っていたものの、後に方針転換、専務の広田は朝日生命を合併相手に選んで、打診に乗り出した。

当初は他生保との合併を企図していた朝日生命であるが、東京でも有数の営業力を持つ護国生命からの申し出に、すぐに交渉の席につき、一九〇二(明治三五)年二月、合併協定が成立した。

ここに、朝日・護国・北海の三生保による、「生命保険初の新設合併」が成立したのである。

合併成る

朝日生命は、各社との合併交渉を進めつつ、新会社設立の準備を着々と進めていた。一九〇二(明治三五)年一月末、まずは同社の本店を大阪市東区大川町四七番地(現・大阪市中央区北浜四丁目あたり)に移す。ここは加島屋本家(現・大阪市西区江戸堀、大同生命大阪本社ビル所在地)から目と鼻の先であり、新会社の本社とすることを前提とした移転先と考えられる。

次いで同年三月二〇日、朝日・護国・北海の三社間で契約書が取り交わされ、ここで初めて三社合併が公式に発表されることとなった。

合併契約書に記された前文には、これまでの経緯と合併に対する想いが、簡潔かつ明確に述べられている。

内外の情勢に鑑み、分立競争の弊を避け、経費を省き、基礎を強固にし、被保険者並びに会社の利益を保護増進せんがために、ここに三会社の合併を協定したり。

*大同生命の社是「加入者本位」「堅実経営」はこの一文にもとづく。

朝日・護国・北海三生保の協定書(明治三五年三月一五日付)

そして同年七月一五日に創立総会が開催され、新会社として「大同生命保険株式会社」が創業する。初代社長には加島屋当主・広岡久右衛門正秋が就任し、資本金三十万円(六千株)、保有契約高一千万円という、当時有数規模の生命保険会社としてスタートした。

大同生命初代社長・広岡久右衛門正秋

社名の由来と社是

三社が合併した新会社の名称は当初、「東洋」「日陽」「日國」「豊徳」「護国朝日」などが候補に挙がっていた。実際、三月一五日に交わされた協定書(前掲)では、新会社の社名は「東洋」となっていた。しかしその後、「大同生命」という社命が記載された三社社長による合併契約書が三月二〇日に締結され、中川が北海生命の社長・高野源之助に送った同日付の電報にも「シャメイダイドウトキメタ」という記録が残っている。

この社名の由来については、「小異を捨てて大同につく」から命名され(大同生命七十年史)、また、後に第二代社長・広岡恵三が

漢書、荘子に散見する無限の包容力を意味する『大同』を社名にとり

(大同生命肥後橋ビル落成記念パンフレット、一九二五(大正一四)年)

とも述べている。また社是として掲げたのは、「加入者本位」と「堅実経営」の二つ。合併の背景、そして合併に至った経緯を振り返ると、経営陣が社名と社是に込めた強い想いが感じられる。

加島屋の役割、浅子の役割

この一連の合併は、浅子ら加島屋(広岡家)経営陣を始め、中川小十郎や橋本篤といった幹部や、玉木為三郎などの専門家が合併を常にリードしていった成果だったと考えられる。

結果、合併後の株主構成は、社長となった広岡久右衛門正秋(加島貯蓄銀行頭取名義、二千八百三十三株)、広岡信五郎(千百十四株)、広岡久右衛門正秋(個人名義、五百七十五株)と、広岡家で全株数(六千株)の七十五%を占めている。当時の保有契約高は、朝日生命(三百七十五万円)よりも護国生命(五百二十万円)の方が規模的に大きい。にも拘らず、本社所在地や株主構成など、合併の主軸は朝日生命が中心となっている。これはやはり、加島屋という財界きっての知名度と財力をもって、合併をリードし、生命保険事業を成功させるという加島屋経営陣の強い意思があったからこそといえよう。

後に金融専門紙『保険銀行時報』では、大同生命創業に浅子が果たした役割について、次のように記している。

由来、現時の大同生命は朝日、護国、北海三生命保険会社の合併しあるものにして、また朝日生命の前身は真宗生命と称し、仏教の隆盛なる名古屋においてその本社を有したり。而してこの真宗生命を買収して朝日生命と改称し、本社を京都に移したるは誰れあろう、広岡浅子なり。びょうたる一婦人の身を以て、保険業の未だ発達せざる時に、斯業の向上発展すべきことを予想し、会社を買収したる遠謀達識は、有髭ゆうし男子を後ろに撞着たらしむる概ありというべきなり。

浅子刀自とじは斯くの如くにして真宗生命を買収し、斯くの如くにして、中川小十郎氏と朝日生命を組織し、斯くの如くにして大同生命の基礎を築き上げたり。川中島を流れる千曲川あらざれば、何ぞ滔々とうとうたる信濃川あらんや。もし現時の大同生命をもって信濃川に擬すべしとすれば、浅子刀自ははるかにその上流たる千曲川に相当せりといわざるべからず。されば刀自と保険とは多大の関係ありというべく、ある意味において刀自は子を産まざりしも、大同生命を産みたりということを得べし。

(「現代の女傑・広岡浅子刀自」(『保険銀行時報』)一九一九年)

刀自:年輩の女性を尊敬して呼ぶ語

生命保険業の進出時に、自ら交渉の断を下した広岡浅子。浅子らが生命保険業に託した「社会の救済と人々の安定」という想いは、現在もなお大同生命に受け継がれているのである。

〈参考文献〉

竹森一則編『本邦生命保険業史』(保険銀行時報社、一九三三年)

生命保険会社協会編『明治大正保険史料』(一九三四年)

『大同生命七十年史』(一九七三年)

『大同生命100年の挑戦と創造』(二○○三年)

宇佐見憲治『生命保険業100年史論』(有斐閣、一九八四年)