広岡浅子を理解するための一〇人(知人・友人編)

広岡浅子はNHK連続テレビ小説『あさが来た』のヒロインのモデルとなった人物です。浅子の周囲にどのような人々がいたのかを知っておくことで、彼女について理解がより深まることでしょう。

浅子の身近な人物にスポットを当てる特集の第二回目。今回は浅子のビジネスパートナーや友人、影響を受けた人物をご紹介します。どの方も浅子に負けず劣らず、個性的な人ばかりです。

日本女子大学校の創設者 一:成瀬なるせ仁蔵じんぞう

一八五八(安政五)年
 〜一九一九(大正八)年

浅子の女子教育事業における、最大にして最良のパートナー、それが成瀬仁蔵です。山口県出身の成瀬は、米国留学から帰国後、大阪の梅花女学校(現在の梅花学園)の校長を務めながら女子高等教育機関の設立を目指し、女子大学校の設立運動を開始します。その時、奈良の実業家・土倉どくら庄三郎しょうざぶろうの薦めで浅子のもとを訪問したことが、二人の出会いのきっかけです。

成瀬の構想に強く共感した浅子の熱心な賛同と協力を得て女子大学校構想は大きく前進、多くの困難を乗り越え、一九〇一(明治三四)年、ついに日本初の女子高等教育機関・日本女子大学校(現・日本女子大学)が設立されるのです。

現在、日本女子大学には、浅子が成瀬に送った二〇点の書簡があります。女子大学校設立にかける浅子の情熱や、学校設立以外の事業に関する小まめな報告・相談など、浅子と成瀬の信頼関係がよくわかる貴重な資料です。

大阪に活気を呼び戻した大阪の恩人 二:五代ごだい友厚ともあつ

一八三六(天保六)年
 〜一八八五(明治一八)年

鹿児島県出身の五代友厚は、明治維新後の外交官・経済官僚を経て一八六九(明治二)年に実業界に転じ、その後、大阪株式取引所(現・大阪取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)などを設立し、大阪の経済発展に大きな貢献を果たしました。

浅子と五代の直接的な交流について、具体的な記録は残っていません。しかし、官僚時代の五代が立ち上げようとしていた通商司(貿易事務会社)の頭取の一人に加島屋当主・広岡久右衛門が任命されたことや、五代を中心とした大阪財界グループに浅子の夫・広岡信五郎の名前があることから、浅子と五代との間に何らかの交流があったと考えられます。加島屋を立て直すために奔走していた浅子と、大阪経済を立て直すために奔走していた五代は、同時代に同じ方向を目指した同志だったのです。

浅子最大の理解者 三:大隈おおくま重信しげのぶ

一八三八(天保九)年
 〜一九二二(大正一一)年

「浅子と最も付き合いの深い政界の人物は?」と聞かれたら、この人物を挙げることになるでしょう。大隈によれば、浅子を初めて知ったのは一八九四(明治二七)年頃。加島銀行が設立され、さらには紡績会社の設立もあり、彼女が忙しく全国を往来していた時期です。日本女子大学校の創立に際しては、大隈が創立委員長となり、ともに協力する関係になりました。

このように、浅子の実業家としての奮闘や、女子大学創立に向けた活躍を間近で見た大隈は、浅子のことをこのように評しています。

「人生の艱難は浅子を玉成し、ついに浅子をして稀有の女傑たらしめたのである。浅子はもと我が国有数の大家に育ち、加島屋に嫁いだのであるが、あたかも加島屋は家道衰退の渕に臨んでいた。しかるに、浅子は多年一日のごとく刻苦経営して今日の隆運に向かわしめたのである。浅子とて初めは自分のえらい事を知らなかったであろうが、暫次艱難に際会して筆勢の大勇気を喚起し、一成一敗、ついに自分の能力を判断するに至っただろう。」

「本邦実業界の女傑(四)(広岡浅子)」(『実業之日本』第七巻四号、一九〇四年)

一九一九(大正八)年、浅子がこの世を去った際、日本女子大学校で開催された彼女の追悼式では、列席者を代表して大隈が弔辞を述べました。

「浅子夫人は常に『たとひ女子であっても努力さえすれば男子に劣らぬ仕事ができるものである、また力があるものである。而して人間は、その境遇を切り開いて自分の思う理想に達することのできるものである』という固い信仰を持っておられました。

(中略)このように浅子夫人は、男子も及ばぬような偉大な力をもって全ての事にあたられましたので、ある一部分の人からは多少誤解も受けましたが、しかし浅子夫人の活動は実に目覚ましいもので、ただにその広岡家のためのみならず、社会的の活動は本当の手本としなければなりません。」

「天性偉大な廣岡夫人」(『家庭週報』第五二四号、一九一九年)

もっとも浅子をよく知る政治家としての説得力に満ちあふれた言葉です。

明治日本の近代化に貢献した稀代の実業家 四:渋沢しぶさわ栄一えいいち

一八四〇(天保一一)年
 〜一九三一(昭和六)年

明治維新後、幕臣から実業界に転じ、多くの近代的企業の創立と発展に尽力した渋沢栄一。渋沢が浅子の実家・三井家と深い関係にあったこと、さらには日本女子大学校設立時には彼女とともに渋沢も設立運動の中心となって尽力したこともあり、二人には深い交流があったと考えられています。その後渋沢は、一九三一(昭和六)年には日本女子大学校の第三代校長に就任しました。

時には三井家をも従える実業家としての力量を持ち、そして女子教育にも大きな理解のあった渋沢は、浅子にとって「目指すべき事業家」のような存在だったのかも知れません。

浅子が我が娘のように愛した、
日本女子大学初の女性校長
五:井上いのうえ ひで

一八七五(明治八)年
 〜一九六三(昭和三八)年

浅子の娘・亀子と京都府高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)で寮の同室だった縁で浅子に一目を置かれた秀は、加島屋にもしばしば出入りし、浅子に可愛がられたと言われています。また、浅子が仕事で出張する時には秀も同行し、炭鉱の監督のために赴いた福岡にも同行していたそうです。

日本女子大学校が創立された後、秀は浅子の勧めで同校に入学。その後、浅子の勧めで米国留学なども経験した秀は、日本女子大学校で家政学の教授として後進の指導にあたり、後に日本女子大学校初の女性校長となりました。

明治日本を代表する「女傑」にして、
浅子の「心友」
六:奥村おくむら五百子いおこ

一八四五(弘化二)年
 〜一九〇七(明治四〇)年

唐津(佐賀県)出身の奥村五百子は、幕末には尊王攘夷運動にも参加したという、男勝りの女性でした。その後自由民権運動などにも参加した五百子は、一九〇一(明治三四)年に戦没者遺族・傷病兵家族の支援組織として「愛国婦人会」を創設、会祖として別格の扱いを受けるに至り、女性社会運動家として名を馳せました。

浅子との関わりもこの愛国婦人会での活動を通じてのものでしたが、この二人は知り合うやすぐに意気投合し、交流を深めたそうです。しかし、さすがは「女傑」と称された二人、会話はすぐに政治や時事問題の議論になるそうで、そこに居合わせた男性記者を大いに驚かせたそうです。

晩年、五百子が病気のため地元の唐津で療養していた時、浅子が遠路はるばる見舞に来たそうです。その時に五百子は「ささいな病気見舞いのため多くの旅費と時間を費やすのは何の益もない。しかし好意はむげにできない」と言うや、すぐさま唐津の名士を集め、当時女子教育で奔走していた浅子に講演をさせました。するとその熱気に影響されたのか、翌日の町議会において、唐津女学校(現・佐賀県立唐津西高校)の設置が決定されたということです。

(参照:『家庭週報』八九号、一九〇七年)

一九〇七(明治四〇)年、五百子が京都の療養先でその生涯に幕を下ろした時には、浅子は大阪から駆けつけ、その最期を看取りました。

浅子を支えた加島屋の幹部、
後の立命館大学創立者
七:中川なかがわ小十郎こじゅうろう

一八六六(慶応二)年
 〜一九四四(昭和一九)年

京都府亀岡市出身の中川小十郎は、文部官僚時代に西園寺公望の側近として活躍した人物です。その後一八九八(明治三一)年、友人であった成瀬仁蔵の紹介により、中川は官僚を辞して広岡家の事業に参画。その入社は、浅子が強く望んだものでした。 

入社後、中川はすぐに経営幹部として活躍し、生命保険事業への進出に尽力。さらに生保三社が合併して大同生命となる時には、合併交渉の責任者として活躍しました。

実業界での活躍のかたわら、朝日生命(現在の朝日生命とは異なる)と加島銀行の資金協力も得て、一九〇〇(明治三三)年、現在の立命館大学の前身である私立京都法政学校を創立、後に総長に就任し、教育界にもその名を残しました。

成瀬を通じて加島屋に入社した中川ですが、浅子が成瀬に送った書簡にもたびたび中川の名前が登場しています。その書簡の中で浅子は「いまでは自分(浅子)の考えを完全に理解している」など、中川の働きぶりを賞賛しています。

浅子の薫陶を受けた、
女性ジャーナリストのさきがけ
八:小橋こばし三四子みよこ

一八八三(明治一六)年
 〜一九二二(大正一一)年

多くの女性に影響を与えた浅子ですが、中でも目をかけていた女性の一人が小橋三四子です。静岡県出身の三四子は、創立したばかりの日本女子大学校第一期生として国文学部に入学。卒業後は同校の同窓会組織である桜楓会おうふうかいが発行する機関誌の編集者となり、後のジャーナリストとしての活動の素地をつくりました。

その後、読売新聞記者として日本初の新聞婦人欄(現在の家庭面)である「よみうり婦人付録」の主任編集者を務めると、独立して『婦人週報』を創刊。そこには浅子の経済的な援助がありました。『婦人週報』では女性の地位向上を訴えるとともに、浅子の自伝が掲載されている浅子唯一の著作『一週一信』を出版しました。『一週一信』は、現代の我々が浅子のことを知るために、欠かせない資料となっています。

(参照:「小橋三四子」の項『日本女子大学学園事典』所収、二〇〇一年)

浅子との意外な接点を持つ、
もうひとりの朝ドラヒロイン
九:村岡むらおか花子はなこ

一八九三(明治二六)年
 〜一九六八(昭和四三)年

二〇一四(平成二六)年四月から九月にかけて放送された「花子とアン」の主人公・村岡花子。彼女もまた、浅子との接点があった女性です。

東洋英和女学校(現・東洋英和女学院)を卒業後、姉妹校の山梨英和女学校の教師をしていた花子は、キリスト教の婦人団体・矯風会きょうふうかいの活動を通じ、浅子の知遇を得ました。

花子は矯風会機関紙「婦人新報」の編集や、毎年開かれていた矯風会大会では書記の要職を務めていましたが、この「婦人新報」には浅子の寄稿も多く掲載されており、また矯風会大会には浅子は講演者として出席、弁舌を奮っていました。

一九一四 (大正三)年から、浅子は御殿場・二の岡に建てた別荘で避暑を兼ねた夏期勉強会を主宰します。それは、若い有望な女子を招待して、立場の別なく勉強や共同生活を行うというものでした。花子もこの勉強会に一九一六(大正五)年から二年続けて参加したのです。

花子はこの勉強会での気づきや暮らしから、多くのものを得たと後に述懐しています。

「私は日本のティーン・エイジャーの読むものについて非常な不満を持っていた。それは若い人たちがわるいのではなくて、適当なものがないのだ。(中略)自分はどうかしてこれらの書物を日本の若い人たちに与えたいと、そもそもそういう決心をしたのはあの二の岡の森の中であった。」

「父母教室」(村岡花子『随想 夏のおもいで』、一九六四年)

今もなお多くの青少年に愛読されている、『赤毛のアン』をはじめとした名作の数々を世に出した翻訳家・村岡花子誕生のきっかけとなったのは、浅子との出会いでした。

浅子の勉強会に参加した、
日本の政治を変えた女性
一〇:市川いちかわ房枝ふさえ

一八九三(明治二六)年
 〜一九八一(昭和五六)年

婦人参政権運動の旗手として、また参政権実現後は参議院議員として二五年。生涯を女性の地位向上や政治の浄化に捧げた市川房枝もまた、御殿場・二の岡で開かれた浅子の勉強会に参加した経験を持っています。

愛知県で小学校教員をしていた一九一六(大正五)年、読売新聞への投書を通じて知り合った小橋三四子にすすめられ、浅子の夏期勉強会に参加しました。このころのことを、自伝でこのように振り返っています。

「このグループの中には後年私の友人となった日本基督教婦人矯風会幹部の守屋もりやあづま氏、群馬(ママ)の東洋英和の先生であった安中花子(のちの村岡花子)氏がいた。また、のちに婦人矯風会の幹部となり、同志として運動を一緒にした千本木せんぼんぎ道子みちこ氏は、当時広岡女史の秘書をしていた。変な格好をしていたらしい田舎の女教師の私は、ここで守屋氏から着物の着方、帯のしめ方を教えられたのであった。」

(『市川房枝自伝 戦前編』、一九七四年)

市川房枝にとってのこの勉強会は、後に運動をともにする同志や友人となる女性たちと出会った、貴重な体験の場となったのでした。