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元気があれば何でもできる? 浅子は加島屋の苦難にどう立ち向かったのか

加島屋最大の危機

明治新政府による制度改革が次々と打ち出された、明治維新からの十数年間。それは浅子や加島屋にとって、最も難しい経営の舵取りを求められた時期でした。

少し振り返ると、まず幕末から明治維新にかけて、時代の大きなうねりを乗り切った加島屋八代当主・広岡久右衛門正饒まさあつが一八六八(明治二年)に死去。数え年で二六歳とまだ若い正秋が跡を継ぎます。

ついで一八七一(明治四)年の廃藩置県により、およそ九百万両といわれた大名貸しの債権の大半が帳消しに。さらには諸藩から公金の運用のために預かっていたお金について、各大名家への返済義務が課されました。浅子が加島屋の経営に参画した時、まず取り組まねばならなかったのは、貸付金の回収だけでなく、加島屋が抱えることになった借金の返済延期の要請や、大名家からのさらなる融資依頼の断りなどだったのです。

若い頃から洋装の写真を多く残していました

浅子の交渉術

それでは浅子は、この大変な時期をどのように乗り切ろうとしたのか。まずは後年の浅子自身の言葉から、当時を振り返りましょう。

ちょうどその時分、家政の整理をしなければならぬ事があって、一一月の寒空に供を一人連れたきりで東京へ参りました。そして深川に三井の別荘、というと大層聞こえがようございますが、実は化け物屋敷みたいな家を借りて住まい、毎晩毎晩夜に外に出ては夜更けに家へ帰る……(中略)その仕事というのは借財の据え置きの嘆願に歩き回ることなのです。当時深川から小石川の水道橋までよく参りました。人力車にも乗らずに徒歩です。それから毛利様のお屋敷が品川の八つ山にあった時分には三等汽車に乗って往来しました。汽車や汽船はいつも三等ばかりに乗っていました。

「活力主義―成功の資本はこれ一つ―(上)」(『婦女新聞』四三八号、一九〇八年)

浅子が赴いた水道橋や品川は、いずれも東京に移り住んだ大名家の屋敷があったところです。この頃の浅子は、借金の返済延期や減額といった難しい交渉に、自ら交渉役として立ち向かったのです。

足軽部屋で過ごす

この頃の浅子に、いかにも彼女らしい剛胆なエピソードがあります。

(中略)しかるに一日例の言い訳に宇和島藩邸に伺候し、ご用人に面会して手元不如意の数々つぶさに訴えたところ、毎々の事ではあるし、ご用人甚だ面倒くさく思ったか、ろくに取り合わなかった。しかしこのくらいでそのままおめおめと立ち帰るような浅子ではない、是非とも猶予の承諾を得なければ引き下がらぬという覚悟で、追いやらるるまま足軽部屋に退き、満身紋紋の荒くれ奴の間に一夜を明かし、とうとう目的を達して帰ったそうである。

「本邦実業界の女傑(二)(広岡浅子)」(『実業之日本』第七巻二号、一九〇四年一月十五日号)

たとえ拒否されても粘り強く交渉し、ついには自らの要求を相手に呑ませる。交渉相手にしてみればたまったものではありませんが、こうして浅子は少しずつ加島屋の立て直しを進めていったのです。

持病から得た教訓

しかしこの時期、浅子はある持病を抱えていました。気管支カタル、つまり気管支炎です。当時、肺の病気は死に至ることが多いとされ、浅子も医者からすぐに療養するように言われます。

しかし浅子は、次のような覚悟で仕事の継続を決断しています。

お医者様も呆れてしまって『貴方みたいにそう乱暴な事をするなら、薬はあげられない』と言いますから、私はそんならよろしい、くれなきゃ貰わないと言ってやりました。私はどうしてもしなければならない仕事があるのだから、この仕事ができれば死んでも構わんと言ってやっていたのです。

「活力主義―成功の資本はこれ一つ―(上)」(『婦女新聞』四三八号、一九〇八年)

現代の我々からみても「そんな無茶な」と言いたくなるような言葉です。しかし浅子は病気を抱えながらも、加島屋のために決して自分が止まることはできないと、強く自覚していたのです。それが、「精神力が身体を支配する」という彼女のポリシーになっていきました。

小我を捨て、大我を得よ

このように精神の重要さを強く訴えた浅子ですが、決して無謀な精神論を振りかざしていたわけではありませんでした。彼女は先ほどの内容に続けてこう説きます。

人間はただ己という者のみに執着しているようではだめです。小我をすてて大我を得るように至らなければなりません。我を忘れて国を憂れふるとか、君を思うとはいうのが即ち大我であります。(中略)人がどう言ったの、こう言ったの、胸に金鎖を下げたの、指に金剛石をはめたのと、そんなつまらんことばかり言っているようではいけません。小我を断滅して而してその上に築き上げた大なる我でなければ、真の人間の値打ちはないと考えます。

「活力主義―成功の資本はこれ一つ―(下)」(『婦女新聞』四三八号、一九〇八年)

浅子は、他人のため、ひいては社会のために何かを成し遂げようという気持ち、つまり社会的使命感があってこそ、人はいきいきと活躍できるということを強く訴えたのです。

このような浅子の考え方のベースとなったのは、持病を抱えながらも日々加島屋の立て直しに奔走していた頃の経験だったのではないでしょうか。