五代友厚と広岡浅子

連続テレビ小説「あさが来た」(NHK)のキーパーソンである歴史上の人物に、五代ごだい友厚ともあつがいます。この五代と「あさが来た」のヒロインのモデルである広岡浅子との間には、どのような接点があったのでしょうか?

五代友厚(一八三六~一八八五) 国会図書館

五代友厚の経歴

五代は一八三六(天保六)年、薩摩藩士の家に生まれます。「友厚」は明治になって名乗ったもので、元の名は「才助」といい、彼の才能を愛した薩摩藩主・島津しまづ斉彬なりあきらにより命名されました。

このように将来を嘱望された五代は、長崎に海軍伝習所(海軍士官養成のための教育機関)が開設されると、その伝習生として留学。勝海舟や榎本武揚たけあきらとともに、西洋の航海術や砲術、数学などを学びました。

その後も汽船の買い付けのために上海へ渡航し、薩摩藩の遣英けんえい使節団の一員として欧州を歴訪するなど、海外の知見を高め、貿易の実務経験を積んだ五代は、明治新政府でもその経験を大いに活かしました。外国事務掛兼大阪府権判事ごんはんじとして、外国に開港したばかりの大阪で、各国との貿易取締や折衝の責任者として活躍しました。このような経歴をみるだけでも、五代が当時としても異才の人材だったことがわかります。

五代の経歴については、原口泉『維新経済のヒロイン 広岡浅子の「九転十起」 大阪財界を築き上げた男 五代友厚との数奇な運命』(二〇一五年 海竜社)を参考にしています。

明治新政府での五代と、加島屋との接点

五代が新政府で力を注いだもの、それは欧米諸国に伍していくための国内商工業の振興でした。しかし、海外の大資本に対抗できるだけの規模の会社は国内になく、また、新政府にもそのような予算はありません。そこで五代が考えたのは、外国との貿易港がある都市に、商人たちの共同出資により、政府管轄の銀行と貿易事務会社を設立することでした。

一八六九(明治二)年六月、五代は大阪商人たちを東京に呼び寄せ、自ら為替会社・通商会社設立の意義を説き、協力を要請します。この呼び寄せた大阪商人の中に、当然ながら加島屋も含まれていました。広岡久右衛門正饒まさあつが二月にこの世を去り、息子の正秋が九代当主の座を継いだばかりのことでした。

若き日の広岡久右衛門正秋

「大同生命文書」に、この東京行を記録した日記「東京行一件控」があります。ここに、五代が伊藤博文らとともに、加島屋一行と面会し、通商会社への協力を直接要請したと思われる記述があります。

(明治二年)六月二日、四ツ時ごろより旦那(正秋)・斎柏、元商法会所へ出勤これあり。山口様・五代様・伊藤様、右お三方、元商法邸へ御出これあり、通商仕法御談これある筈……(後略)。

野高宏之「会計官日誌」翻刻資料一九「東京行一件控」(カッコ内は引用に際して独自に付したもの)

当主となったばかりの正秋は、東京行きに際して、兄・信五郎や既に加島屋の経営に参画していた浅子とも相談したことでしょう。この結果、同年八月に大阪に通商会社・為替会社が設立され、正秋は五代の説得を受けた五名の商人とともに「通商司為替会社・総頭取」に就任しました。

五代と浅子の接点

その後、五代は「今後の日本に必要なものは、民間の商業振興である」という信念から官職を退き、大阪で実業家として活躍します。幕末からの混乱で疲弊した大阪を復興するために、次々と会社や団体を立ち上げた五代ですが、そのひとつが大阪株式取引所、現在の大阪取引所です。この大阪株式取引所で一八八二(明治一五)年より肝煎きもいり(理事、現在の取締役)に就任したのが、浅子の夫・信五郎でした。肝煎となった信五郎は、様々な事項について、正秋や浅子と相談したことでしょう。

そして、信五郎が大阪株式取引所の肝煎だった時に、加島屋にとって重要な出会いがありました。後に炭鉱事業の重要なパートナーとなった吉田千足ちたるとの出会いです。吉田も五代同様に明治政府の高官で、司法省に出仕して和歌山県始審裁判所の所長を務めていました。

司法省を退官後、五代らとの交流を通じて大阪の実業界に入り、一八八二(明治一五)年には大阪株式取引所の頭取に就任しました。(『立身致富信用公録』「工業家吉田千足君」、一九〇二年 国鏡社)

少し後の話ですが、加島屋による炭鉱事業は、一八八四(明治一七)年にこの吉田と浅子が共同で石炭の販売会社を設立したことからスタートします。加島屋は五代が創り上げた大阪財界グループの一員であり、さらにそこから炭鉱事業という新しいビジネスチャンスを掴んだと言えるのです。

このように、五代が新政府の高官だった時代にも、また、大阪財界の中心として活躍した時代にも、加島屋とは多くの接点がありました。ただし、五代と浅子との間で実際にやりとりがあったという記録は確認されていません。

しかし、大阪経済の復興に情熱を注いだ五代と、加島屋の復興のために奔走した浅子。ともに大阪に対する想いの深い二人です。記録には残っていませんが、どこかの会合で、加島屋の店先で、大阪の街角で、激しく議論を交わす二人の姿が思い浮かぶようです。