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広岡浅子と洋装

明治から大正にかけ、女性実業家として、また女性の地位向上のための社会活動でその名を知られるようになった広岡浅子。その象徴とも言えるのが、浅子の「洋装」でした。実際に、現存する彼女の写真の大半が、洋装姿で撮影されたものです。

浅子の洋装姿は、当時の雑誌記事にも

「公の席に臨む場合には、洋服の押出し誠に凛々しいもの……」

「本邦実業界の女傑(四)(広岡浅子)」(「実業之日本」第七巻四号、一九〇四年)

と記されています。それではまず、浅子の洋装姿の写真をいくつか見てみましょう。

鹿鳴館時代(一八八三~一八八七年)、後腰を膨らませる「バッスル・スタイル」のドレスが流行した。「鹿鳴館の華」と呼ばれた鍋島榮子ながこもよく似たドレスを着用した写真が残っている。
浅子が着用しているドレスは、立襟で長袖のものが多い。これは「ローブ・モンタンテ」と呼ばれる。胸が大きく開いたものを「ローブ・デコルテ」という。浅子の好みは前者で、女性が肌を露出することに対して彼女は批判的な言葉も残している。
浅子は晩年まで洋装を好んだ。若い頃のドレスとは違い、ややカジュアルな装いだ。
この二枚の写真で着用しているドレスは浅子が特に好んだもので、現在日本女子大学成瀬記念館で開催されている「女子大学校創立の恩人−広岡浅子展」でも再現されたものが展示されている。(展示は平成二八年三月四日まで)

洋装の歴史

明治維新の後、政府主導による「文明開化」政策の下で、急激な西洋化が進みました。断髪令(いわゆる「ちょんまげ」の禁止)、公式行事の洋装化、そして一八八七(明治二〇)年一月一七日には、昭憲皇后の「婦女服制の御思召おぼしめし書」において「洋装は立ち居振る舞いに便利であるため、これを使う」と発せられたことで、女性の洋装も公式なものと認められるようになりました。

しかし、一般女性にはまだまだ馴染みがなく、洋装といえばごく一部の「上流階級の証」でもありました。

浅子が洋服を愛用した理由

それでは浅子はいつ頃から洋装になったのか。そしてなぜ洋装を好んだのか。浅子自身は新聞の寄稿文で、常に洋装を身にまとうようになったのが一九〇二(明治三五)年、またその理由として、和服で椅子に座ることの不便さといった生活様式の変化への対応や、寒さや暑さに対する洋装の適用性の高さといった点に着目したと記しています(婦女新聞「真我を知りて婦人自ら立て(二)」一九〇九(明治四二)年)。従来の因習にとらわれずに実利に主眼を置いた、浅子らしい発想です。

この浅子の洋装へのこだわりは広く世に知られており、詩人で新聞コラムニストの魁でもあった薄田すすきだ泣菫きゅうきんはコラムの中で

浅子女子(原文ママ)は洋服が好きだ。生れ落ちる時洋服を着ていなかったのが残念に思われる程洋服が好きだ。

「丸髷嫌い」薄田泣菫(『茶話』、一九一七年)

と皮肉たっぷりに述べています。浅子の洋装へのこだわりは、それほど徹底していたものだったのです。

ときには和服を

このように、晩年は外出時に洋装で通した浅子ですが、実はある時期に、公の場で和服を着て写っている写真があります。

日本女子大学校一期生卒業式の写真(提供:日本女子大学)

この写真が撮影されたのは、一九〇四(明治三七)年。この年の七月、夫である広岡信五郎が喉頭がんのため、闘病の末にこの世を去ります。つまりこの和服は病気療養中の夫をおもんばかってのものだったのでしょう。

何事にも実用性を重んじる浅子の性格にうまくマッチした洋装。しかし、そんな彼女も、さすがに信五郎が病床に伏したときには相当こたえたのでしょう。

溌剌はつらつとした気分で活動する際は洋装を身にまとい、内向きでふさぎがちなときには和服を選ぶ――浅子の服装は、彼女の気持ちそのものを表していたのかも知れません。