浅子の「愛弟」三井三郎助と寿天子

浅子は生涯を通じ実家の三井家と良好な関係を保ちました。中でも、浅子が「愛弟あいてい」と呼んだ小石川三井家・八代目当主の三井三郎助高景たかかげ(以下、三郎助)とは、家族ぐるみで生涯親しい付き合いがありました。今回はその三郎助と彼の妻、寿天子すてことのエピソードをご紹介します。

浅子と三郎助

三郎助は浅子の義兄、高喜たかよしの長男なので、戸籍上は「叔母と甥」になります。しかし二人の年齢は一歳しか違わなかったため、幼少期を姉弟同然に過ごしました。

浅子が加島屋に嫁いだ後も、その関係が変わることはありませんでした。浅子がまだ「てる」と名乗っていた頃の書簡が三井文庫(東京都中野区)に残っており、そこには三郎助(当時の名前は弁蔵)に宛てた、彼の体調を気遣う内容が記されています。

三井三郎助高景(一八五〇〜一九一二)

三郎助は明治維新後すぐに他の三井家子弟とともにアメリカに留学し、帰国後は三井組(三井銀行の前身)に入社します。一八九二(明治二五)年には三井鉱山社長に就任し、小石川三井家当主として、銀行、物産とならぶ三井家の事業の柱を担い活躍しました。記録はありませんが、浅子が炭鉱事業に進出した時にも、三郎助の助言や協力があったのかも知れません。

さらに三郎助は、浅子が情熱を傾けた日本女子大学校の創立にも多大な協力をしています。発起人、創立委員、監事、評議員として有力者とともに名を連ね、女子大学校の設立に大きく貢献しました。

一九○○(明治三三)年六月、日本女子大学校の東京設置が決議された直後、三井一門から目白の土地五千四百余坪が寄付されます。これにより用地問題が解決し、翌年の開校に大きく弾みをつけることとなりました。この目白台の土地の寄付は、三郎助が三井一門に掛けあったものと言われています(『日本女子大学校四拾年史』)。また開校後も三郎助の協力姿勢は変わることなく、軽井沢にある同校の夏期寮「三泉寮」も、彼の寄付により設立されました。

このように、浅子が事業に邁進した時に、三郎助は常に協力してくれる頼もしい存在でした。

浅子と寿天子

このように公私ともに親しかった浅子と三郎助ですが、三郎助の妻・寿天子も、浅子とは深い関係がありました。寿天子は大坂の名門両替商・平野屋五兵衛家に生まれます。加島屋と肩を並べる家柄に生まれた寿天子ですが、まずは広岡信五郎と浅子の養女となり、次いで三井家惣領家(北家)当主の三井高朗たかあきの養女となるという手順を踏んで、一八八二(明治一五)年に三郎助の元に嫁ぎます。このような結婚前に養子縁組を結ぶことは、家と家の関係を深くするために商家ではしばしば行われていた習慣でした。

さて、この寿天子は周囲の人が口を揃えて「日本婦女子の鑑」と賞賛するような女性でした。浅子も日本女子大学校の生徒に向かってこう語っています。

私は境遇上普通の婦人の如くやさしく、しとやかになどしているわけには行かず、(中略)自然私は男子六分、女子四分の性質になったのでありますから、決してあなた方の理想的夫人ではありません。寧ろこの点真似られては困るので、婦人の理想としては、おすてさん(寿天子)を真似して下さい。ここによいお手本があります。

高月千代「御高徳を偲びて」『雪の香』(日本女子大学校櫻楓会出版部 昭和一八年)所収
三井寿天子(一八六五〜一九四〇)

時には男性をも従えて精力的に活動する浅子と、女性も憧れるような慎み深さと優しさをあわせもった寿天子。対照的な二人でしたが、とても仲が良く、日本女子大学校の式典や講義にはいつも二人一緒に行動していたほどでした。

また寿天子も、後に浅子のことをこう語っています。

私がこうして種々な事を学ぶ心になり、人様のお話を楽しんで伺うこのよい習慣は、広岡の姉のお陰でございます

守屋東「つつまれたる光」『雪の香』(日本女子大学校櫻楓会出版部 (昭和一八年)所収)

このように浅子の影響を強く受けた寿天子は、日本女子大学校の卒業生により組織される団体である桜楓会に「桜楓館」を寄付し、また二人の娘を同校に通わせるなど、浅子とともに日本女子大学校への援助を惜しみませんでした。

浅子(右)と寿天子(左)。中央は寿天子の四女・美佐雄みさお

三郎助の浅子への想い

夫婦ともども浅子と良好な関係だった三井三郎助と寿天子。しかし三郎助は一九一二(明治四五)年四月、浅子より先に六十三歳でこの世を去ります。浅子は日本女子大学校の追悼会で三郎助との別れをこう語っています。

三井の家で私のために全快祝をしてくれました時、(中略)私が平常から好んでおります竹に因んだのでありましょう、銀製の竹筒に蘭と菊と室咲(温室で育てて冬に咲かせる)梅の小枝をさえ添えて挿してありました。三郎助はそれを指して「之は何か考えてみて下さい」と申しましたが、これは日頃私の好む、四君子(東洋絵画で好んで用いられる、蘭、竹、菊、梅の四種植物の総称)に作ったのでありました。

(中略)

また死に至らんとした時(中略)、私が参った時は、彼は自分の事は何事も言わず先にまず私の健康を気遣って尋ねたのです。私はこの通りに全快したと申した処が非常に喜んで、別れを告げたのであります。

「故人に対する最良の追善」『花紅葉』第一〇号 日本女子大学一九一二(明治四五)年

何歳になっても姉の好きな植物を覚えており、もてなす心づかいを持っていた三郎助。また病床にあっても、自分よりも浅子のことを気にかける姿。浅子が彼を「愛弟」と呼んだように、三郎助にとっても浅子は、「愛する姉」であり続けたのです。