必見! 広岡浅子像ができるまで 前編

このコラムでは、二〇一八年三月に大阪本社に新たに建立した「広岡浅子像」について、制作の目的や、制作に携わった東京藝術大学の方々のお話を通し、浅子像が作られるまでの制作過程や鋳造方法などをご紹介します。

はじめに

大同生命大阪本社ビル(大阪市西区)は、当社の礎を築いた大坂の豪商・加島屋がかつて店を構えた地にあります。これまでも、特別展示「大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”」の一般公開をはじめ、石碑「加島屋本家」の建立(二〇一六年二月)など、当社のルーツをご紹介するために、様々なご紹介活動を展開してきました。

二〇一七年度は当社の創業一一五周年(明治三五年七月創業)ということもあり、創業者の一人であり、NHK連続テレビ小説「あさが来た」のヒロインのモデルとなった広岡浅子の像を制作し、二〇一八年三月二九日に、大阪本社ビルで、広岡浅子像の完成記念式典を開催しました。

制作にあたっては、東京藝術大学の若手女性彫刻家(二名)を起用し、数々の功績を残した女性実業家・広岡浅子を、新たな「女性活躍のシンボル」として、より多くの方に知っていただくことを目的としています。

除幕式の様子

東京藝術大学・北郷きたごうさとる教授インタビュー「空間と調和した広岡浅子像」

この銅像の制作を受託したのが、東京藝術大学です。ご存知のとおり、数多くの芸術家を輩出した芸術専門機関であり、銅像彫刻についても高村光雲を始めとした巨匠が教授陣に名を連ね、上野公園(東京都台東区)の西郷隆盛像や、皇居外苑前(東京都千代田区)の楠木正成像など巨大な銅像の制作も担当した由緒ある大学です。

まずは、今回の広岡浅子像を大同生命の受託研究という形で、そのプロジェクトを統括された東京藝術大学美術学部彫刻学科・北郷悟教授に、プロジェクトの内容をうかがいました。

──浅子像制作のプロジェクトリーダーとして、制作過程をお聞かせください。

北郷:大同生命さんからの制作依頼を受けて、まず大阪本社を視察し、像を『どこに置くべきか』から検討しました。像が置かれる場所はどのような空間か、また来館者の動線を踏まえて、どのようなイメージの像があるのがよいかを考えたのです。

大同生命大阪本社

──銅像の制作で、どこに置くかから検討をはじめるなんて、正直意外でした……。

北郷:彫刻というのは、目に入って一~二秒で印象に残るかどうかが勝負なのです。そのため、像と空間との関係性というのはとても重要です。

大同生命さんの大阪本社ビルは、特徴的な建物外観に加え、アントワーヌ・ブールデル(フランス・一八六一〜一九二九年)や本郷ほんごうしん(日本・一九〇五〜一九〇八年)など、素晴らしい作品が本社ビルの敷地や建物内に自然な形で展示されていて、他の企業のビルには見られないとても素敵で上品な空間でした。

そのため、浅子さんの銅像も一般的な「功績を称えること」を目的とした銅像のように権威的なものにはしないようにしよう、自然と来館者の方の目に入り、鑑賞できるような低めの台座のものがいいと考えました。

像の色は大阪本社の内装と合うよう、明るいイメージがよいと考えました。また、『自然な姿で将来(未来)を見つめる姿』をイメージして、見つめる先に土佐堀川がある場所に設置することになりました。

このように、全体の構図をイメージした上で、左上の頭の先から右下の足元まで像全体の流れを意識したポーズとなり、座っている椅子も時代考証のうえ、片方は肘掛けがないものに決めました。

「九転十起生─広岡浅子像」(高さ一三〇センチメートル)

──制作者に若手の女性お二人を起用した意図は?

北郷:浅子は、女性が表向きの仕事をすることが認められていなかった時代に、新しい時代を切り拓いた女性です。そのような『新しい時代の女性』にふさわしく、あまり権威的でない彫刻にしたいと考えたときに、制作者も若い女性を起用した方がよいと考えました。そこで、東京芸術大学院・助手の人体塑像を専門にしている額賀ぬかが苑子そのこさんと、台座についても同じく助手の國川くにかわ裕美ひろみさんに依頼しました。

表情やしぐさを決めるのがとくに難しかったのですが、制作を担当した額賀さんがさまざまなポーズや表情を研究して、とてもよい作品になったと思います。

東京藝術大学・赤沼あかぬまきよし教授インタビュー「西郷隆盛像、楠木正成像と広岡浅子像」

この浅子像の制作では「受託研究(協同プロジェクト)」という名が示す通り、東京藝術大学ではある研究テーマをもって作成に臨まれました。そのテーマというのが「真土まね型鋳造法」というものです。この研究テーマの内容、そしてその意義を、東京藝術大学美術学部工芸科鋳金教授の赤沼潔先生に伺いました。

──今回の受託研究では日本古来の方法で像を作るという事が一つ研究テーマにされ、それに関して技術的な監修を赤沼先生がされたと伺いました。

赤沼:今回の作品は、真土まね型鋳造法といい、上野公園の西郷隆盛像や皇居外苑の楠木正成像など、明治期の大型銅像と同じ作り方で制作しました。実はこれらの銅像も東京藝術大学(および前身となる東京美術学校)で作られたものです。元々、真土まね型鋳造法は中国や韓国から伝わった技術ですが、それらの国では継承されておらず、今は日本でのみ保持している技術です。浅子さんが活躍した明治期の銅像制作はこの方法が主流でした。

──この作り方の特徴は?

赤沼:鋳造とは、鋳型に熔けた金属を流し込んで成形する技法です。銅像を作るには、まず、デザインの元となる原型を作り、型(外型)を取ります。型から原型を取り出し、銅像内部に中子という一回り小さい型を作り、外型と中子を組み合わせて鋳型ができます。さらにその隙間(五ミリ程度)に熔けた銅を流し込み、冷まし、鋳型を外したら銅像のパーツが完成するといった具合です。

この鋳型の型取りを、和紙やわらなどを混ぜた土で作るので「真土まね型」といいます。今回使用した真土は二〇〇キログラムを超えます。タイル状に貼り込んでいるものは割れた瓦で、真土の水分を吸収し、乾燥させます。完成した鋳型を八〇〇度で焼成し、熔けた銅(ブロンズ)が流れないように地中に埋め、一一〇〇度以上で熔解した一五〇キロの銅を流し込みます。真土型鋳造法は、難易度が高く、また時間やコストもかかるため、現在ではこの技法で制作することは稀です。蝋を石膏で固めた鋳型を使うなど、鋳造には八種類ほどやり方はありますが、今回真土型を使ったことで、像は『しなやか』でありながら、強靭な形ができたと思います。

──研究テーマとして、どのような成果を求められたのですか?

赤沼:東京藝術大学では、過去に西郷隆盛像や楠木正成像など大型の鋳造物を制作していたのですが、その当時、教授から個人的に雇われた職人が多く作業に携わっていたため、制作過程の記録がきちんと大学に残っていませんでした。真土を使った大型の鋳造をどのように展開するか、分割などはどうするか、その方法論を記録するというのが今回の具体的な研究テーマでした。

実は、明治時代に十年かけて楠木正成像を制作するときに作った工房を、制作が終わった後にそのまま潰すはもったいないということで、東京藝術大学の鋳金の工房になったという経緯があります。

──そして次に藝大で手掛けた大型のものが、上野公園の西郷隆盛像ですよね。

赤沼:そうですね。西郷像も真土で鋳型をとって制作されています。そう考えると、人数や規模は違いますが、東京藝術大学の流れとしては、楠木正成像があって、西郷隆盛像があって、今回の広岡浅子像も同じ技法でやっているのですから、それらの名作の流れの中に位置づけてよいと思います。ちなみに、他にも日本橋にある麒麟像も東京藝術大学で、同じく真土型で制作されています。

西郷隆盛像/楠木正成像

──真土型を用いたことで大変だったことは?

赤沼:やはり時間がかかりました。今回の浅子像のように、少し動きがあって、椅子に腰掛けている像は一つの鋳型ではできないので、デザインの元となる石膏で制作された像を分割して鋳型を作るのですが、その分割をどこでするかが重要です。大きくなった場合の分割はどこでするのかも研究のテーマとして設定したのですが、手や椅子の部分など、想像以上に大変でした。実は九つのパーツに分けたのですが、苦労の連続で、まさに浅子さんのモットーである『九転十起』(決してあきらめない精神)を思い出して頑張りました(笑)。

真土型をクレーンで移動させているところ

──具体的にはどのように工夫されたのですか?

赤沼:大きな型を外す時にひっかかると思われるところには、細かく分けた型を入れていくという、技術的には『窓寄せ』というものですが、その型だけで何十個も作りました。それだけたくさん作ったのに、溶接の時には、奇跡的にほとんど歪みが出なかったのです。これは鋳型の厚みがだいたい同じように均等に取れたということで、普通は歪みができたり、縮んだりすることがあるのですが、型にばらつきが出るとそれが歪みの原因になったりします。なるべくそうならないようにしても、少しは出てしまうものなのですが、今回はピタッと合いました。

上・鋳造工程:熔かした銅を鋳型に流し込む様子
下・制作過程:石膏から外型をとる様子

──それは真土での型どりがポイントだったのでしょうか?

赤沼:真土はかなり重要でしたね。真土で型を作って、きちんと補強をして強度を保ったから、しっかりと均一のものになったという、真土型の良い面が出たということですね。真土型を使ったことによって、作品の仕上がりの精度が上がって綺麗に出来たということです。

そもそも額賀さんが原型をとても上手に制作されていたので、分割しても形がとても綺麗に作られていたというのもありますね。

土中から現れた浅子像ボディ

──最後に、今回の制作を通じての広岡浅子への想いや印象をお聞かせいただけますか?

赤沼:浅子さんが活躍した当時は、女性が社会に出ようとしても阻まれた時代でしたよね。それを突破された、それはすごいパワーだというのを改めて感じます。今、東京藝術大学では学生は女性の方がはるかに多いのですが、女性教員の割合はすごく少ない状況です。今でさえこんな状況なのに、明治の時代に女性として経営や事業の先頭に立ったというのは、凄いですよね。

──貴重なお話をありがとうございました!

前編では、北郷先生、そして赤沼先生にお話を伺いました。

後編では、浅子像の制作に携われた女性お二人に制作にまつわるエピソードや浅子像にかけた想いなどを伺います。ぜひ後編もお楽しみに。