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【第二章】加島屋のビジネスモデル2/3

豪商の宿命・幕府との交渉

幕府との交渉

このような諸藩への大名貸しを通じて一大金融企業となった加島屋にとって、避けては通れないもの、それは「幕府との交渉」であった。幕府もまた、経済政策を進めるために、大坂商人たちの懐をあてにしていた。

当時、幕府は常に「米価」に頭を悩ませていた。コメの生産量を基準として領地を割り当てる「石高制」をとっていた幕府にとって、米価の下落は諸藩の財政悪化、ひいては幕府自身の財政悪化に直結する問題であったからである。

また、諸藩の年貢米を有価証券化した「米切手」についても、幕府は対応を迫られることがあった。諸藩が少しでも手元収入を増やそうと、実際の在庫量を超える米切手を水増して発行するという悪習が続き(空米切手からこめきって)、市場に信用不安を起こして、米価が下落することが度々あったのである。

幕府は、米価上昇策や米切手市場の健全化に、大坂商人の資金力とノウハウを利用しようと考えた。その際に矢面に立ったのが、加島屋をはじめとする有力商人だったのである。

加島屋は、大坂商人の筆頭格として、幕府から示される様々な無理難題を解決していく必要があった。

五代・正房まさふさが当主の際に記された『御用日記』という史料が、「大同生命文書」として現存している。それによれば、一七七三(安永二)年三月五日に、大坂町奉行所より「空米切手の入替をせよ」と要請されたことが記されている。

堂島米会所では、主にコメを「米切手」という証券で売買していた。証券売買による米取引は市場の成長を促したが、一部の藩が実際の在庫量を超える米切手を発行し、それが不良債権化したことから(前述の「空米切手」)、その藩の米切手の信用力が急激に下がり、コメの現金化が滞るといった深刻な問題を引き起こしていた。

幕府は、公銀を加島屋と鴻池屋に貸し付け、両者が空米切手の「入替(米切手を担保とする貸付)」をすれば市場を健全化できるのではないかと考えた。

しかし、『御用日記』によれば、加島屋は鴻池屋と共同歩調を取ってこの政策に反対した。その理由は、幕府が公銀を投入することで、現在信用力を保っている米切手まで信用不安を引き起こす、というものだった。

このように、加島屋は大坂商人のリーダー格として、鴻池屋とも協力して、幕府に対して“NO”を突きつけることもあったのである。

なお、この『御用日記』に記されている幕府と加島屋の交渉については、髙槻泰郎・神戸大学経済経営研究所准教授『近世米市場の形成と展開 幕府司法と堂島米会所の発展』(名古屋大学出版会 二〇一二(平成二四)年)に詳細な論考が所収されている。

幕府との交渉記録『御用日記』(大同生命所蔵)

度重なる御用金供出

しかし、さすがの加島屋にも断り切れない要求があった。それは「御用金の供出」である。幕府は米価引き上げなどに要する政策資金を、大坂の主だった商家に拠出させることを常としていた。加島屋はその中心的な地位にあり、常に鴻池屋とならび、最高額を拠出し続けていた。

たとえば六代・正誠まさよしの代にあたる、一七九〇(寛政二)年から翌年にかけて、幕府より御用金の要請があった。この時に加島屋が納めた金額は、なんと三万三千両(現在の金額でおよそ十六億五千万円/一両五万円換算。八万円換算で二六億円)にものぼる。これは鴻池屋と並び、最高の金額であった。

幕府による御用金の要請は江戸時代末期まで続くが、江戸時代後期を通じ、加島屋は鴻池屋と並び常に最高金額を納めている。幕府は、両家を「大坂商人の双璧」と認識していたのだろう。

なお、御用金は名目上、利子を付けて返済するものとされていた。しかし、返済期限は明示されておらず、そのまま明治維新を迎えて貸し倒れとなってしまった。当初から完済など期待していなかったかも知れないが、商人たちからすれば酷な話であった。

このように、幕府や大名家から資金源として常に頼りにされていたため、大店とはいえ決して油断はできない加島屋だが、単に利潤を追求し、家を守ることだけを考えていたわけではなかった。

加島屋は、常に「社会貢献」や「学問に対する支援」といった目線を持っていたのである。