【第二章】加島屋のビジネスモデル3/3

社会貢献と本願寺門徒としての活動

加島屋の社会貢献

これまで見てきたように、加島屋は個人向けの商売ではなく、諸藩や市場を相手にした金融ビジネスで、名実ともに豪商としての地位を不動のものとした。

しかし、豪商という存在は、しばしば民衆の厳しい目にさらされた。「不況や飢饉の際にコメを買い占めている」「困窮の元凶」といった非難を受けることがあったのである。

たとえば、一七八二(天明二)年に発生した「天明の打ちこわし」では加島屋も被害に遭っている。しかしこれは「間違にて加島屋久右衛門こぼち申候」という記録もあり、民衆の誤解が発端とも言われている。

また、大坂では一八三七(天保八)年に、大坂町奉行所の元与力(諸奉行などの補佐役)である大塩平八郎が、幕府に対して反乱を起こすという大事件が発生している(大塩平八郎の乱)。このときには、船場を中心に三千三百軒の家が罹災し「大塩焼け」と呼ばれる被害をもたらした。この時の加島屋は打ちこわしの被害に遭っていないものの、鴻池屋・天王寺屋・平野屋といった名だたる商家が襲われている。

「大同生命文書」に残る加島屋の社会貢献関連資料はかなりの数にのぼる。そのほぼ全てが銀や銭、そしてコメの寄付行為であるが、内容や目的は多種多様なものとなっている。

窮民への寄付・災害への寄付

数ある社会貢献の中でも加島屋が重視したのは、「難渋民なんじゅうみん」といわれる生活困窮者や被災者への援助であった。特に七代・正愼まさちかの時代は、天候不順による凶作が多く、飢饉が頻発した。「大塩平八郎の乱」のきっかけともなった「天保の飢饉」に際しても、加島屋は積極的に施米・施銭による困窮者の救済を行っている。

また、八代・正饒まさあつの代である一八五四(嘉永七)年、関西圏をマグニチュード八・四の「安政南海大地震」が襲った。安治川あじかわ・木津川の両川口にも二・五メートルの津波が押し寄せ、多くの民が犠牲となった。この大災害の被災者に対し、加島屋は発生の翌月に銭を寄付した。

「大地震両川口津浪記石碑」(大阪市浪速区)

この他、お蔭参り(江戸時代にたびたび発生した熱狂的な群衆による伊勢神宮への集団参詣)が起こった際にも、加島屋は「施行宿」といわれる蔵や川船を開放した。

安治川あじかわ浚渫しゅんせつ天保山てんぽうざん

大坂ならではの社会貢献事業として、「安治川浚渫工事への協力」が挙げられる。

当時の安治川は、海路で物資を輸送する船が、大坂の中心地にある蔵屋敷へ行き来する「交通の大動脈」であった。この安治川は長年の土砂の堆積によって水深が浅くなり、船の航行に支障が出ることがあった。そこで、一八三一(天保二)年から、川底の土砂を取り除く浚渫工事が官民挙げて行なわれた。

加島屋はこの工事に対し、初年度に銀三〇貫、二年後に銀二七貫、八年後には銀六貫と、現在の貨幣価値でおよそ五千三百万円に及ぶ額を寄付し、復興を支援している。この工事の際、川底からすくった土砂を堆積してできたのが、現在も残る天保山(大阪市港区)である。

加島屋と西本願寺

これまで述べたように、大坂でも有数の豪商となった加島屋は、積極的に社会貢献に取り組んでいた。しかし、豪商として有名になる以前から熱心に取り組んでいたものもあった。それが西本願寺との関係に基づいた、学問に対する支援活動である。

加島屋は、江戸期を通じて西本願寺の有力な門徒であった。最近になって、同寺の古文書の中から、初代・正教まさのりの名(「加島屋教西」、教西は初代久右衛門の法名)が記された史料が発見された。時は一六七〇(寛文一〇)年。先に述べた、加島屋が津和野藩との融資契約を交わす百年も前のことであり、少なくとも、初代・正教の晩年には、西本願寺と深い関わりがあったのである(本願寺史料研究所・大喜直彦氏のご教示による)。

加島屋と学林がくりん

さて、西本願寺には、一六三九(寛永一六)年に設けられた「学寮がくりょう」という学問のための施設があった。学寮は一六五五(明暦元)年に幕府の命で取り壊されるが、あらたに「学林」と名を変えて再出発する。

一七五一(宝暦元)年、学林は現在の京都市・西洞院通周辺に移転するが、その土地代・校舎建設費の寄進を行ったのが加島屋広岡家であると、学林の史料に記されている。四代・正喜まさのぶ(法名:喜西)の代のことであり、彼が学林の能化のうけ(学林の最高位)義教ぎきょうに深く帰依したことが背景にあると考えられている。

また、六代・正誠まさよしが当主だった一七八四(天明四)年には、京都西洞院にあった加島屋の別邸が、土地・屋敷とも学林に寄進されている。この場所は、現在の西洞院正面付近(京都市下京区)と想定される。

加島屋が寄進したとされる、別邸が存在した周辺(西洞院正面)

その後も加島屋は折に触れて学林に援助を行い、これに感謝した学林は、加島屋の歴代当主やその妻のための特別な供養を頻繁に行っている。明治の初年まで、加島屋は「学林の最大の外護者」として強力な援助を続けたのである。

この学林はその後、移転や組織改編・合併などを繰り返しながら、現在も四年制の大学として多くの若者が学ぶ場となっている。それが現在の龍谷大学である(『龍谷大学三百五十年史』、「諸件遣状留」)。

二〇〇年の社会貢献がもたらしたもの

この加島屋と西本願寺との長きにわたる関係は、意外な縁を持ち込む結果となる。一八九九(明治三二)年、浄土真宗各派の資金拠出により創業された生命保険会社である真宗生命が経営に行き詰った際、その経営援助を真っ先に打診されたのが、長らく西本願寺の有力な門徒であり、当時加島銀行や広岡商店などの近代化企業を有していた加島屋だった。

九代・正秋とともに経営を担っていた広岡浅子の決断で、加島屋は真宗生命の経営権を取得し朝日生命(現在の朝日生命とは異なる)と改称、傘下の企業とする。その後、一九〇二(明治三五)年、朝日生命が護国生命・北海生命との三社合併により誕生したのが、現在の大同生命である。

大同生命創業の背景には、江戸期の初代・加島屋久右衛門から始まる社会貢献の精神があったと言っても過言ではないだろう。