【第一章】加島屋のルーツと発展

大同生命の源流は、大坂商人・加島屋に発する。

加島屋は、鴻池屋と並び、江戸時代経済の中心であった大坂を代表する大商人であり。我が国の経済史を語る上でも、外せない存在である。

このコーナーでは、加島屋の歴史をたどってゆく。第一章ではまず、加島屋当主・広岡家のルーツと、大坂を代表する商家に成長するまでを追っていこう。

加島屋広岡家のルーツ

初代より、実に三九〇年

現在の大同生命のルーツは、江戸時代(一六〇三~一八六七)の大坂の豪商「加島屋」である。当主は代々"久右衛門"を名乗り、江戸時代には八人の当主が代をつないだ。

歴代当主の名前・生年・没年は次の通りである(なお、歴代当主名は大正時代に大同生命の社員講習用に作成された『広岡家の由来』(草稿)、ならびに高槻泰郎・神戸大学准教授の『大同生命文書解題』(二〇一三年)に依った)。

○初代=広岡久右衛門正教(冨政) 慶長八年(一六〇三)~延宝八年(一六八〇)

○二代=広岡久右衛門正保(正吉) 慶安二年(一六四九)~元禄一六年(一七〇三)

○三代=広岡久右衛門正中 貞享四年(一六八七)~享保五年(一七二〇)

○四代=広岡久右衛門正喜(吉信) 元禄二年(一六八九)~明和二年(一七六五)

○五代=広岡久右衛門正房 寛保二年(一七四二)~天明三年(一七八三)

○六代=広岡久右衛門正誠 安永三年(一七七四)~天保四年(一八三三)

○七代=広岡久右衛門正愼 寛政三年(一七九一)~天保一一年(一八四〇)

○八代=広岡久右衛門正饒 文化三年(一八〇六)~明治二年(一八六九)

初代・正教による加島屋創業は、江戸時代初期の寛永二年(一六二五)と伝えられている。

これが正しければ、大同生命のルーツは三九〇年前にまで遡ることになる。

鎌倉時代が一四一年間、室町時代は南北朝・戦国期を含めても二三五年間、そして、最も長かった江戸時代ですら二六四年間である。

とにかく、途方もない長期間にわたって、のれんを維持してきたのである。

広岡家のルーツは赤松円心?

この加島屋広岡家は、いったいどのようなルーツを持っているのだろうか?

伝承によると、その遠祖は、赤松則村(法名を「円心」)であるという。足利尊氏の挙兵に参加し、室町時代初期に播磨(現在の兵庫県西部)の守護大名となった武将である。

その赤松家の一門にあたる「御一家」九家中に、広岡氏が見える。この広岡氏は、円心の孫に当たる則弘が初代とされる。加島屋広岡家は、ここに連なるのだという。

広岡家の家伝では、戦国期に楠木正成の子孫・正嗣が入り婿となり、当主の通字(名に必ず含める文字)を、「則」から「正」に改めたという。

そして、この正嗣の孫・正厚のとき、広岡家は摂津国川辺郡難波村(現在の兵庫県尼崎市東難波)に移住した。

戦国時代(一四六七~一六〇三)のことである。

織田信長も仕官を求めた?

今少し、広岡家の家伝に沿って見ていこう。

戦国時代もたけなわの天正六年(一五七八)、謀反を起こした荒木村重を討伐するため、織田信長が摂津に出陣する。

信長は、当地の広岡正厚が赤松円心の子孫であり、「楠流兵法」に通じていることを知るや、家臣に迎えたいと考え、礼儀を尽くして仕官を要請した。

しかし、血なまぐさい争いに巻き込まれることを嫌う正厚は謝絶し、信長も無理強いはせず、破顔一笑して了解したという。

またこの時、正厚は「広岡家は仁徳天皇の代より、梅の木を守る家系である」とも言ったという。

赤松家の一族、という伝承と矛盾するようでもあるが、ともあれそのような伝承も残っているのである。

ルーツを武将に求めた大坂商人たち

さて、実際のところ、赤松庶流広岡氏と加島屋広岡家の間に、明確なつながりを見いだすことは難しいようである。

江戸時代、大坂の豪商たちは、自らのルーツを戦国武将などに求めた。鴻池屋は山中鹿之助、両替商の天王寺屋は塙団右衛門の子孫を称したが、加島屋も同様に、同姓の赤松庶流広岡氏に連なると称したのであろう。

なお、ここで紹介したルーツは、七代・正愼の代である文化一五年(一八一八)に、大坂西町奉行所の命に応じ、広岡家の由来を調べた結果に基づくものである。

実際に調査に当たったのは手代の覚兵衛という人物だが、彼の日記には、既に江戸初期のことさえ分からなくなっており、四苦八苦しながら調べを進めたことが記されている。