「愛弟子」井上秀にとっての浅子

多くの後進に影響を与えた広岡浅子。彼女が最も将来を期待していた女性の一人が、後に日本女子大学校の校長(第四代)となる井上秀でした。今回は、二人の関係をたどりながら、浅子の薫陶を受けた秀から見た「浅子像」をご紹介します。

井上秀(一八七五〜一九六三)

勉強好きの努力家・井上秀

まずは簡単に、秀の生い立ちから紹介します。一八七五(明治八)年、現在の兵庫県丹波市に生まれた秀は、一五歳の時に京都府高等女学校(現・府立鴨沂おうき高等学校)に入学します。秀は両親の説得に時間がかかったこともあり、他の学生より三ヵ月近く遅れて入学したため、当初は英語の授業にまったくついていけず、最初の試験では0点をとってしまいます。しかしそこから奮起して勉学に没頭し、英語で満点をとるに留まらず、卒業まで首席の座を譲る事がなかったほどの努力家でした。

浅子との出会い

それほど勉強熱心な優等生であった秀ですが、浅子の一人娘・亀子と寮の同室となったことで大きく運命が変わります。亀子と仲良くなった秀は、大坂の亀子の家(加島屋)に招かれ、そこですでに女性実業家として活躍していた浅子と出会うのです。浅子にことのほか気に入られた秀。彼女が加島屋に泊まるときは、三人で一緒に食事をし、夜は同じ部屋で浅子を中心に川の字になって寝たと言います。また、亀子とお揃いの着物をあつらえてもらうなど、秀は浅子から我が娘のように可愛がられました。

広岡亀子(右)と井上秀(左)

ともに炭鉱に行く

ある時、浅子の「何でも知っておかないと」という言葉に誘われ、秀は彼女と一緒に九州の炭鉱に同行します。そこで鉱夫らと面と向かってやりとりをする浅子を目の当たりにした秀は、強い衝撃を受けます。

何事も恐れない女の人を私はこの人で知りました。どんなたくましい男の人々にでも、交渉し、命令し、叱責する有様に痛快を感じ、『この方はほんとにえらい女の人だ』と、すっかり心服してしまいました。男女同権などと理屈をいう人の一人もいない時に、事実として、男と同じ力をもつ女の人の生き方を、女社長の姿を見せてもらったことになります。深い影響を受けました。

と語っています。

よく言えば「勉強好き」、悪く言えば「やや頭が固い」秀は、浅子の行動力を、まさに目から鱗が落ちる思いで見つめていたのでしょう。この炭鉱への同行をきっかけに、秀は浅子をより深く尊敬し、慕うようになりました。

日本女子大学校への入学

秀の人生を大きく変えたもう一つの出会い、それは日本女子大学校の創立者・成瀬仁蔵との出会いですが、そのきっかけも浅子でした。

優秀ではあるが真面目すぎる秀をみかねた浅子は、

どうもやっぱり一本調子で所謂カドがとれないから、どうか一つ先生の御主義の教育を受けさせたいと考えているのです

「頻頻と至る死の教訓 嗚呼広岡浅子刀自」(『家庭週報』五〇一号、一九一九年)

と、女子大学校設立に向けてともに奔走していた成瀬に、秀を紹介します。

こうして成瀬と出会った秀は、時には浅子の代理人として東京の成瀬や支援者のもとを行き来するなど、二人が女子大学校を設立に導くまでの過程を、間近で見続けるという機会を得ました。この頃の浅子について、秀はこう語っています。

成瀬校長もこの広岡夫人に出会わなかったら、その志はどんなに立派でも、ことによったら、日の目をみない結果になったと思われます。

(小林いと子「日本女子大学櫻楓会の母―井上秀先生―」『井上秀先生』所収)

女学校を卒業した後、結婚と出産を経験した秀でしたが、浅子と成瀬が情熱をもって進めている「日本初の女子高等教育機関」への想いを強くし、浅子の援助と成瀬の指導のもと、日本女子大学校家政学科に第一期生として入学するのでした。

明治四一年 井上秀留学送別会写真
白いドレスが浅子、向かって右へ麻生正蔵(第二代校長)、井上秀、成瀬仁蔵
(提供:日本女子大学)

家政学の第一人者、そして日本女子大学校初の女性校長に

一九〇一(明治三四)年、二六歳で日本女子大学校に入学した秀は、入学と同時に学生寮の寮監に任命され、学生を束ねる立場となります。また卒業と同時に発足した同校の卒業生組織・桜楓会おうふうかいの幹事長に就任。さらには浅子の勧めもあって学問としての家政学を研究するために米国へ留学しました。帰国後の一九一〇(明治四三)年には家政学部教授に就任し、成瀬が最も信頼を寄せる女性として日本での家政学確立、そして日本女子大学校の発展に力を尽くします。

その後、秀は一九三一(昭和六)年、第三代校長・渋沢栄一の死を受けて、日本女子大学校の第四代校長に就任します。創立者の成瀬が「ゆくゆくは男性でなく女性に、それも外部からではなく本学出身者に校長となって欲しい」と言い残して世を去ってから一二年後のことでした。成瀬、そして浅子が理想とした女子高等教育を具現化したのは、まさに井上秀その人だったのでした。

秀が浅子から学んだもの

日本を代表する教育者となった井上秀の人生において大きな転機となった、浅子との出会い。浅子とのエピソードを数多く残した秀は、浅子のことを

「してはいけません」「おやめなさい」ということをほとんどおっしゃらなかった。「やりましょう」、「やりなさい」といつでも、激励する方でした。

と述懐しています。

学ぶことが大好きで、勉学に没頭した若き日の秀。そんな彼女の価値観を変えたのは、浅子の「実践する姿」でした。秀は書物ではなく浅子の生き様から学んだことを、こう語っています。

浅子さまから身近にうけた「生き抜く力」を欠いていたなら、どうでしたろうか。思えば私は幸福者でした。何としても、えらい女性の浅子さまとのご縁で今日の私があると考えられるのです。

きっと浅子にとっても、秀は最も自慢できる「愛弟子」だったに違いありません。

白いドレス姿の井上秀。「留学に際し広岡夫人から贈られた服を着用して」と記されている。(『井上秀先生』所収)

〈主な参考資料〉

『井上秀先生』(日本女子大学桜楓会、一九七三年)

井上秀「頻々と至る死の教訓 嗚呼広岡浅子刀自」(『家庭週報』五〇一号、一九一九年)