〝女性の貧困〟をなくせ!
 〜広岡浅子のSDGs

はじめに

SDGs(持続可能な開発目標)。二〇一五年に国連サミットで採択された、未来にわたり豊かな社会を持続させるために二〇三〇年までに達成すべき「17の目標」と、その目標を達成するための具体的な「169のターゲット」で構成されています。近年では日本でも多くの企業や団体がSDGsに取り組んでおり、この言葉に触れる機会も多くなってきました。

日本では気候変動や環境問題などの分野が注目されていますが、SDGsの1番目に掲げられている目標は「貧困をなくそう」です。貧困問題というと、アジアやアフリカの開発途上国や戦乱が起きている地域の問題とイメージしがちですが、現在の日本社会にも、格差による貧困、高齢者の貧困、子どもの貧困など、解決すべき問題は未だ多く存在しているのです。

さて、今から一一〇年ほど遡った二〇世紀初頭。日露戦争など対外戦争に勝利し国際的な地位を大きく高めた日本にも、深刻な貧困問題がありました。それが、「女性の貧困」です。まだ女性がひとりでは経済的自立が困難だった時代、家長である男性が戦争で亡くなったり、心身が傷つき廃兵となってしまうと、安定的な収入を得るすべのない女性は、たちまち経済的苦境に陥ってしまいます。この問題を斬新な方法で解決しようとしたのが、他ならぬ広岡浅子でした。

今回は浅子が取り組んだ社会事業のうち、女性の貧困問題を解消するために浅子が発案・推進した、愛国婦人会での「授産事業」についてご紹介します。

明治時代の「女性の貧困」

まずは二〇世紀初頭の日本の状況を振り返りましょう。当時の大日本帝国では国民皆兵、すなわち徴兵制がとられていました。一八七三(明治六)年に出された徴兵令は、当初は免除規定が厳格ではなかったものの、日清戦争(一八九四(明治二七)年〜一八九五(明治二八)年)、日露戦争(一九〇四(明治三七)年〜一九〇五(明治三八)年)などの国際戦争を経た戦時下には、家長や農家の長男なども招集の対象となるなど、一家の主要な生計の担い手も国民の義務として招集されるようになりました。

また二〇世紀の戦争は、産業革命による軍事技術の急速な発展とそれに伴う戦術の変化により、多くの死傷者が出る「総力戦」へと変わっていきました。例えば日露戦争では、旅順・二〇三高地の戦いや黒溝台の会戦などの激戦により、日清戦争の一〇倍以上となる約二四万人もの死傷兵が出ました。

この相次ぐ対外戦争により、家長や配偶者である男性が戦死、または廃兵(心身に大きな障がいを負って除隊した兵士)となると、残された女性は経済的に自立するすべを持っていないため安定した収入が得られず、また国から支給される恩給も、戦後の急激な物価上昇により実質額が減少しつづけることで、経済的に困窮した女性が急増することになりました。

愛国婦人会と奥村五百子

この問題に対処するために発足した組織が、一九〇一(明治三四)年に設立した「愛国婦人会」です。団体の設立を主唱した奥村おくむら五百子いおこは、一九〇〇(明治三三)年に発生した北清事変に派遣された兵士の慰問のために中国大陸に赴き、その経験から「軍人遺族を救護し、重大な傷病で社会復帰できなくなった兵士家族を救護する」事業の必要性を思い立ち、帰国後すぐに政財界の有力者を熱心に説いて、設立にこぎつけました。

奥村五百子

この愛国婦人会は、皇族女性が総裁に、華族の女性が会長に就任するなど上流階級が中心となって設立された団体でした。上流階級の資金やネットワーク、さらには軍部の強力な後援もあって、愛国婦人会は瞬く間に会員を増やします。主な活動は、女性による戦地慰問や看護師の派遣、また、現在でいうチャリティー活動を通じて戦死兵や傷病兵の家族に救護金を贈るといった慈善事業が中心となっていました。

この奥村五百子を「心友」と呼び、深い親交をもっていたのが広岡浅子でした。

浅子も愛国婦人会には設立初期から協力しており、一九〇三(明治三六)年に中之島公会堂で開かれた愛国婦人会大阪支部第一回総会には、愛国婦人会総裁であった閑院宮妃かんいんのみやひ智恵子の入場を先導する役を浅子が務めました。

浅子の考え

このように、主唱者の奥村五百子と親しく、愛国婦人会大阪支部の中心人物だった浅子。しかし、浅子は愛国婦人会の「上流階級から広く寄付を募って困窮した女性に分配する」という方法には否定的でした。浅子はこう主張します。

「わが国は、国民皆兵の制度を敷いている。中流以上の生計を営む者の妻子であればそれなりに財産もあるだろうが、中流以下のものに至っては、親に別れ夫に離れては、一身を処する能力すら有さない。国民皆兵たる以上、これら中流以下の家族も、いつか遺族となる日が来る。しかもただ座して誰かの救いを待つといった窮状に陥るのは明白である。

元来、他を救うに、物資を給して金員を恵むは一時の応急手段としてはよいが、結果としては依存心を起こし、他人任せの惰民をつくるだけである。ゆえに与えるのは職業であり、独立自営の精神を養成しなければならない。」

「愛国婦人会拡張意見」(『婦女新聞』三七七号 (一九〇七(明治四〇)年))

浅子はこの考えに基づいた、ある事業の提案をします。それが「授産事業」です。「授産」とは、「仕事を授けること」を意味し、元は武士としての俸禄を失った士族に対して仕事と資金を支給した「士族授産」が語源です。

「すなわち愛国婦人会において、授産場や職業学校に類するものを全国に設け、これらの婦人児童を収容し、殖産興業を教えて、自活の道を得させるとともに、ひと通りの教育を与えるのだ。

会員を多く募り資金を増し、他の一方には授産業を起こし軍人遺族をして独立自営の道を講ぜしめ、あい対して進むということが必要である。」

「愛国婦人会拡張意見」(『婦女新聞』三七七号(一九〇七(明治四〇)年))

こうして、一九〇五(明治三八)年一月から、愛国婦人会大阪支部で女性を貧困から救うための授産事業が始まったのです。

愛国婦人会大阪支部の授産事業

浅子が事業として着目したのは「裁縫」でした。浅子も幼いころ教えられたように、裁縫は当時の女性に必要とされた「教養」の一つでした。女性ならではの教養を活かし、さらに事業として成り立たせるため、大量のミシンを購入し愛国婦人会大阪支部の2階に持ち込みました。そして若い女性にはまずミシンの使い方から教え、熟練した女性はどんどんと服を作り上げていく、そのような職業訓練学校兼作業場を整えました。

ここで作られる服は、警察、郵便、電気局、軍人といった公共団体の制服で、他の一般企業と競争入札の上で受注したものでした。また、布の裁ち屑の再利用や、賄いなど生活必需品を卸しで買い付けるなど、事業を行うための節約にも工夫しました。

また、文字を知らない女性や子どもに対し、毎朝就業前の三〇分に国語をはじめ、算数や道徳を教える時間を作り、手紙をかける程度までの教育を受けさせました。

愛国婦人会大阪支部の様子。上は教室、下がミシンを備え付けた授産室(出典:「救済研究」(一九一五(大正四)年一一月号))

この授産所の運営を支えたのが、冨樫真喜子、服部たい子という愛国婦人会大阪支部の役員でした。二人は大阪支部会長を補佐して会員間の連絡をとり、遺族や貧しい人を授産所に集めるほか、工員への指導や外部との折衝を一手に担いました。浅子も「幸い相当の教育ある婦人で熱心に働いてくれた者があったので、今日立派に進歩発展していくことができました」と、二人の功績を讃えています。

女性がこの仕事によって得られた給料について、浅子は「一ヵ月で多いものは二五円、少なくても日給一五銭は得られる」(一九一二(明治四五)年)と語っています。ちなみにこの当時の大卒銀行員の初任給は三〇円でした((週刊朝日編『値段史年表 明治大正昭和』一九八八(昭和六三)年)。こうして、各自が貯金もできるようになり、一年足らずで一〇〇円以上の貯金を作った女性もいたということです。

この愛国婦人会大阪支部の授産事業は、成果があがるにつれ、全国に広がっていきました。時代が明治から大正へと移り変わる中で、愛国婦人会も一九一七(大正六)年には定款を改正して「軍事の扶助」から「広く社会を対象とする救護救済事業」へと軸足を移し、授産事業は正式に愛国婦人会の事業の一つとなりました。

その後も愛国婦人会は全国各地に授産所を開設し、一九三八(昭和一三)年にその数は全国二九もの本・支部にまで及んだのです。こうして、浅子が大阪で始めた授産事業は、明治から昭和にかけて、女性を貧困から救う大きな役割を果たしたのでした。

おわりに

浅子は、自身の経験や日本女子大学校の設立運動を通じ、女性のあるべき姿について一つの明確な考えを持っていました。それが「女性に足りないのは経済力」という考え、そして「女性も事業の計画者となるべき」という強い想いです。

今日の婦人が無力である最も大きな理由は、経済力に乏しいという点です。そこで私は、婦人が大いに殖産興業のために働くことを希望するのです。女子に適する職業を選んで、 これに従事し、単に機械的に従事するばかりでなく、自ら事業の経営者となって、系統的に組織的に、経済的に、これを発達させていくことが必要だと思うのです。

「二十世紀に於ける日本婦人(下)」 (一九一一(明治四四)年一〇月一三日『婦女新聞』五九五号)

浅子の考えは、冒頭にご紹介したSDGsの目標1「貧困をなくそう」だけでなく、目標4「質の高い教育をみんなに」、そして目標5「ジェンダー平等を実現しよう」を、明治時代から志向していたことに驚かされます。

女性を貧困から救い安定した経済力を持つために授産事業を推進し、さらには事業や組織の中心となる女性の活躍を求めた広岡浅子。その考えは、現在の「SDGs」や「女性活躍社会」を先取りしたものだったといえるのではないでしょうか。

参考資料

  • 『愛国婦人会四十年史』(愛国婦人会 一九四一(昭和一六)年)
  • 『愛国婦人会四十年史付録』(同右)
  • 広岡浅子「女子の職業に就ての卑見」(『新女界』四‐五 一九一二(明治四五)年)
  • 広岡浅子「愛国婦人会拡張意見」(『婦女新聞』三七七号 一九〇七(明治四十年))
  • 「埋もる才能もかくて花咲く 愛国婦人会大阪支部の活動」(『婦人週報』五‐四 一九一九(大正八)年)
  • 「被服製造と愛国婦人会大阪支部」(『感化救済小鑑』一九一〇(明治四三)年 内務省地方局編)
  • 「救済研究」(一九一五(大正四)年一一月号)
  • 井上恵子「愛国婦人会の施設に於ける教育活動−大正中期から昭和初期を中心として−」(教育学雑誌第一七号 一九八三(昭和五八)年))
  • 北泊謙太郎「日露戦争中の出征軍人家族援護に関する一考察−下士兵卒家族救助令との関わりにおいて−」(『待兼山論叢〈史学篇〉第三三号 一九九九(平成一一)年』)
  • 今井小の実「愛国婦人会と社会事業−大正後期の山口支部の活動に焦点をあてて−」(『Human Welfare』第一二巻第一号 二〇二〇(令和二)年)