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アメリカ人研究者が語る広岡浅子の魅力

はじめに

大阪で万博が開かれ、広岡浅子が立て直した加島屋(大同生命の礎を築いた大坂の豪商)が創業したと伝わる年から四〇〇年となる二〇二五年、アメリカで広岡浅子の評伝を発表しようとしている研究者がいます。その人の名は、ギャレット・L・ワシントン先生(44)。現在はマサチューセッツ州立大学アマースト校の准教授です。

今回、資料調査のために来日、大同生命に来社されたワシントン先生にお話をうかがいました。

ギャレット・L・ワシントン先生

Prof. Garrett L. Washington

一九八〇(昭和五五)年生まれ、ミズーリ州カンザスシティ出身。大学三年生時の九州大学への留学等を経て現在はマサチューセッツ州立大学アマースト校歴史学部准教授、イェール大学東アジア研究協議会研究員、ハーバード大学日本学研究所研究員。専門は日本近代宗教史、社会史、ジェンダー史など。

主な著書に『Church Space and the Capital in Prewar Japan』(ハワイ大学出版部、二〇二二(令和四)年)。

広岡浅子との出会い

──アメリカ人の研究者が、広岡浅子について調査していることにまず驚きました。ワシントン先生は、浅子をどうして知ったのでしょうか?

ワシントン:私は日本の近代史、特にプロテスタント 系キリスト教が日本でどう広まったのかを研究しています。大学三年生の時、二〇〇〇(平成一二)年 に九州大学に留学していたこともありますし、その後パリ第八大学で来日したヨーロッパ宣教師の研究もしていました。

私は博士論文を書くため、明治時代から大正時代における東京の最大のプロテスタント教会 (本郷教会、霊南坂教会、番町教会、富士見町教会など)について調べていました。その時に、本郷教会で行われた広岡浅子の講演を見つけ、その内容にとても興味をもったのが、浅子との初めての出会いです。そして二〇〇九(平成二一)年に書いた論文で、浅子のことを少しだけ紹介しました。論文の内容は二〇二二(令和四)年に一冊の本として出版しましたが、そこにも浅子は登場しています。

ワシントン先生が二〇二二(令和四)年に出版した書籍『Church Space and the Capital in Prewar Japan』(『戦前日本の教会空間と首都』)の、浅子に言及した箇所

そして二〇一二(平成二四)年ごろから、私は宗教史とともに近代日本の女性の歴史に研究領域を広げたのですが、そこで改めて広岡浅子のことを調べるようになったのです。

──日本では二〇一五(平成二七)年に放送されたNHKの朝の連続テレビ小説「あさが来た」で広岡浅子の知名度が上がりましたが、それより前に浅子のことを知っていた、調べていたということが驚きです。

ワシントン:二〇一五(平成二七)年以降、いきなり浅子に関する書籍が日本で沢山出版されたことにびっくりしました(笑)。ドラマで人気になったことは、とてもいいことだと思います。ですが、その頃に出版された本はどれも一般の人に向けた概説的な内容で、歴史学の手法を使った研究書ではありませんでした。ですので、私が歴史学的なアプローチで、世界中の人に、浅子のことを伝えたいと思ったのです。

広岡浅子研究の意義

──ワシントン先生によって浅子の評伝が出版されると、確かにそれは〝世界初〟となる浅子の学術的な評伝になりますね。話は戻りますが、ワシントン先生が興味をもった浅子の講演はどのようなもので、浅子のどのような言葉に興味をもったのでしょうか?

ワシントン:私が目にしたのは浅子の講演記事で、一九一一(明治四四)年に本郷教会で行われた「二十世紀に於ける日本婦人」という題のものです。浅子はそこで二〇〇名の女性と六十七名の男性の前で講演を行ったのですが、その内容は「現在の女性が無力なのは、身体的な力が弱いとかではなく、経済力がないことが原因だ」と分析し、「自ら事業の経営者となって発展させていくことが必要で、そのためにも男性と同等の知識を持たなければならない」と述べています。このような内容を話す女性は当時大変珍しいだけでなく、彼女の言葉には論理性と強い説得力があって、私は大変興味を持ちました。

──研究者として、広岡浅子を研究することにはどのような意義があると考えていますか?

ワシントン:たくさんありますが、ジェンダーを例にとりましょう。幕末から戦前までの日本におけるジェンダー研究は、一九八〇年代からこの四十年で大きく変化しています。それは従来の〝女性だけの歴史〟という視点ではなく、日本の産業史や社会史などにおいても、女性の地位や仕事、ネットワークがどのように関わっていたのかを解明しようという動きです。実は広岡浅子も「日本の工業物産の半分は女性の手により作られている」と述べていますが(「女子の職業に就ての卑見」(『新女界』4‐5 一九一二(明治四五)年))、まさにその視点が現代のジェンダー史で求められている視点です。

平塚らいてう、伊藤野枝(大正時代に活躍した婦人解放運動家)、といったこれまで分析の対象となってきたフェミニズムの運動家や、著名な作家、政治家だけではなく、広岡浅子や鈴木よね(戦前の日本最大の総合商社「鈴木商店」主人)、辰馬きよ(「黒松白鹿」などの銘柄をもつ「辰馬本家酒造」第十代当主夫人)のような産業界における女性実業家の存在も構造的に分析されることになれば、ジェンダー史の革命といっていい価値があると私は思います。

アメリカの普遍的価値感と浅子

──ワシントン先生の話を伺っていて、興味深いと感じたことがあります。浅子が実業家として活躍していた一九〇〇年前後、浅子は日本ではほとんど知られていない存在でした。しかし、実は一九〇二(明治三五)年にはすでに、アメリカで「日本の女性銀行家」として浅子が紹介されています。今回のワシントン先生が、日本の研究者よりも早く浅子のことを評価し、研究していることと、偶然ではないように感じるのですが?

ワシントン:面白い意見ですね。浅子が早くも一九〇〇年代初めにアメリカで紹介されたのには、三つの理由があると考えます。まず一つ目に、当時の日本をアメリカに紹介した人というのは、記者や研究者ではなく、日本で活動していた宣教師や教育者でした。彼らは自分たちの活動の価値をアメリカに伝えるため、日本の文化水準があがっていることを紹介したかった。そのための例として紹介された一人が〝女性銀行家〟の広岡浅子でした。

二つ目に、当時の〝アメリカ的価値観〟に広岡浅子が合致していたといえます。どのような価値観かというと、一九世紀末から広まった女性参政権運動に代表される「女性の地位はもっと向上しなければならない」というもの。そして、アメリカでは、「よく働き、よく勉強し、努力すれば成功できる」という普遍的価値観もありました。そのようなアメリカの普遍的な価値観、当時の価値観に浅子の存在がうまく適合したと考えます。

最後の理由は、当時のアメリカでは、新渡戸稲造の『武士道』や内村鑑三の『代表的日本人』、岡倉天心『茶の本』といった本が出版されるなど、世界の人々の文化などを知りたい、日本の考え方を知りたいといった関心がありました。そのようなアメリカ人の好奇心を満たすような記事が増えてきた頃です。浅子の存在はそのニーズに合致していたといえます。

そして、実は一九一〇年代後半にも、浅子はアメリカの新聞や雑誌で紹介されています。紹介した人は、キリスト教のネットワークに属する人でした。彼らにとって、浅子のような上流階級の女性がクリスチャンになったことは、彼らの活動の成功の象徴ともいえるものでした。その成功を本国にPRすることで、より多くの注目と支援を得ることが期待できる。例えばウィリアム・メレル・ヴォーリズもそのうちの一人です。

私はキリスト教史の専門でしたから、当時の日本におけるキリスト教宣教師の資料をよくみていました。当時の宣教師が広岡浅子のことをすごいと思い、アメリカで紹介しようとしたことと同じ感覚を、現代の私も持っているといえますね。そして、浅子のことを調べれば調べるほど、それは必然なことのように思います。

──最後になりますが、ワシントン先生は資料調査のために大同生命の大阪本社に来社されましたが、展示などをご覧になられてどのような感想をもたれましたか?

ワシントン:展示はとても素晴らしいと思います。建物も素晴らしいですし、広岡浅子だけでなく、加島屋、そして大阪の経済の歴史がわかるとてもユニークな展示だと思います。堂島米市場のシステムなどは本当に興味深いですね。

それと、広岡浅子の登場はやはり加島屋が歩んだ歴史が大きく関わっていることを、改めて考えました。彼女の当時としては極めて珍しいといえる個性を理解するためには、加島屋の歴史、彼女が生まれた三井家なども正しく理解する必要があると思いました。

──ワシントン先生の当社での調査が実りあるものとなり、そして〝世界初の学術的な広岡浅子の評伝〟が刊行される日が来ることを、心から楽しみにしています!

大阪本社一階の広岡浅子像と記念撮影いただきました

ワシントン先生も絶賛された大同生命大阪本社特別展示『大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”』は、現在も公開中です。