“A Japanese Woman Banker”
アメリカで紹介された「女性銀行家・広岡浅子」
無名の存在だった広岡浅子
明治三〇年ごろの浅子は、すでに実業家として活躍していたにもかかわらず、ほとんど世に知られていませんでした。浅子を紹介した初期の資料で、
余り世人の耳に入らない無名の女豪とも云うべき夫人
と紹介されているのを見ても、当時の人々からすれば浅子の名前は無名に近いものであったことがわかります。浅子が実業家として、また女子大学校設立や女性の地位向上、キリスト教の活動などで有名になったのは、明治末期から大正時代にかけてのことでした。
アメリカの新聞に浅子の名前が?
そんな「知る人ぞ知る女性実業家」だった浅子ですが、実は一九〇二(明治三五)年にはすでに、アメリカの新聞で紹介されていました。
浅子を紹介したのは、ペンシルバニア州フィラデルフィアの新聞“The Philadelphia Press”(ザ・フィラデルフィア・プレス)。この新聞に“A Japanese Woman Banker”(日本の女性銀行家)というタイトルで、浅子が紹介されているのです。さらに同年、アメリカの金融専門雑誌“The Bankers' Magazine”でもこの「ザ・フィラデルフィア・プレス」を引用する形で記事を掲載しています。
この記事では浅子を、
“the founder and actual guiding spirit of the famous banking firms of Kajuna”
(有名な加島銀行の創業者かつ実質的経営者)
“one of the pioneer coal miners in Japan”
(日本における炭鉱事業のパイオニアの一人)
と紹介しています。さらに浅子の活動を、このように記しています。
“She also takes a keen interest in educational matters; is at present promoting a university for girls, and, by way of giving practical encouragement, employs many educated girls at her banks, and has lately opened a new department which she has placed exclusively in the hands of ladies.”
(彼女は教育にも強い関心を持っており、女子大学の設立も支援している。また、女性活躍の実績を作る観点から、教育を受けた女性を自らの銀行に多数採用し、最近では、女性のみで運営する部署を新設した。)
ここで紹介されている「女性銀行員の採用」と「女性のみの部署の設立」について、日本でその事実を裏付ける資料は確認されていません。しかしながら浅子の実業家としての手腕、そして女性を積極的に活用しようとする姿勢が、日本よりもアメリカでいち早く紹介されていたことは、大変興味深いといえるでしょう。なお、この記事は日本にも伝えられ、一九〇二(明治三五)年一〇月号の『大阪銀行通信録』「外国彙編」に収録されています。
意志あるところに道は拓く
またその翌年の一九〇三(明治三六)年、さらに詳しく浅子の実績を紹介した本がアメリカで出版されます。タイトルは“A Handbook of Modern Japan”。米国と「正反対の隣人」と称される日本を、過去ではなく現代に着目して研究・報告したこの本の著者はアーネスト・クレメントといい、日本に宣教師として来日後、東京中学院(現在の関東学院の前身)の設立に携わった教育者です。
クレメントがアメリカで出版したこの本でも、「新しい時代の女性」として、津田梅子(教育者、女子英学塾[現・津田塾大学]の創設者)とともに広岡浅子が紹介されています。その内容をご紹介します。
この(石炭)事業で、浅子は多くの困難に遭遇した。まずは、広岡家の他のメンバーを説得するところから始めた。実質的な決定権を持つ彼らは保守的でもあったため、説得するには十分な説明が必要であった。また、彼女自身の信用を除けば、手元にはわずかな資金しかなく、ほぼゼロから始める事業であり、多くの苦難を乗り越える必要があった。しかし、意志あるところに道は拓く。最終的に、実直であるが頑固な鉱夫たちは厚遇され、事業は追加出資を取り付け、浅子は才能にあふれた比類なき女性実業家としての名声を得ることとなったのである。
浅子の所有する炭鉱は、次々と高価格で売却され、収益をもたらした。そして現在、彼女は銀行業の拡大に心血を注いでいる。ビジネスで成功を収めた人間は、さらなる高みを目指すのが常である。また、自らも教養のある浅子は、教育、特に女子教育への関心が高く、成瀬氏が提唱する女子大学構想の主たる支持者の一人であった。また、女子教育を支持する動きの追い風になると考え、彼女は自らの銀行の行員として、教育を受けた女性を数名採用しており、女性行員のみで構成される新しい部署の設置も視野に入れていた。
当時の日本において、浅子のように結婚して夫が健在である女性は、戸主として法人の代表になることはできませんでした。そのため、浅子の多くの事業は夫である広岡信五郎の名前で行われており、それが浅子を「知る人ぞ知る」存在としていた理由の一つでもありました。
しかし浅子の活躍は、遠く海を隔てたアメリカではいち早く「女性行員を育てた銀行家」として着目され、当時の日本よりも高い評価を受けていたのです。