パリ万博(一八八九年)でも受賞!
“宮内庁御用達”の銘酒「惣花」
はじめに −御用酒「惣花」−
「惣花」という日本酒の銘柄をご存知でしょうか? 今上天皇が即位された二〇一九(令和元)年、天皇陛下が皇后さまとともに祝宴に臨んで即位を披露し祝福を受けられる儀式「饗宴の儀」でも供されたお酒です。
惣花が宮内庁にお納めする御用酒、いわゆる「宮内庁御用達」となった歴史は古く、お酒好きで有名な明治天皇もしばしば惣花を召しあがっていたことが知られています。
この惣花、醸造元は日本盛株式会社(兵庫県西宮市/以下「日本盛」)ですが、そのなかに「加島屋捌」と外箱に書かれたものがあります。この「加島屋捌」の惣花を卸している株式会社加島屋(以下「㈱加島屋」)は、東京都中央区新川に本社を置く酒類卸売会社です。宮内庁御用達の惣花は、正確にはこの㈱加島屋がお納めしたものです。
さて、今回このコラムで惣花を取りあげる理由は、既にお気づきの読者の方もいらっしゃるかもしれません。この惣花を宮内庁にお納めしている㈱加島屋は、大同生命の源流となった商都大坂の豪商「加島屋」の流れを汲んだ会社なのです。
それではなぜ大坂の豪商「加島屋」が東京で酒店を開業したのか、そしてなぜ、現在日本盛でつくられている惣花を、㈱加島屋が宮中にお納めしているのでしょうか。
今回は、「加島屋」とも関係が深い銘酒「惣花」に秘められた話をご紹介します。
惣花の由来
まずは惣花について、その成り立ちをご紹介しましょう。㈱加島屋と日本盛のウェブサイトには、惣花についてこう由来が書かれています。
惣花は江戸期 丹波杜氏流の酒造法を発明した灘酒の祖、岸田忠左衛門が極意の酒として完成した銘酒を加島屋が譲り受けました。
「惣花」の歴史は古く、江戸時代末期に丹波杜氏流の酒造法を考え出した名醸家岸田忠左衛門が極意の酒として完成した銘酒です。
岸田忠左衛門(一八一七〜一九〇三)は、丹波国多紀郡辻村(兵庫県丹波篠山市)の出身です。現在でも日本酒の国内最大生産量を誇る灘五郷のひとつ、魚崎郷(現在の兵庫県神戸市東灘区魚崎)の岸田屋に働き、のれん分けを受けて独立し「岸田忠左衛門」を名乗りました。江戸時代末期に新たな清酒の醸造法による「惣花」を開発し、この酒は一躍全国で評判となりました。この頃のエピソードとして、このような話(要約)が伝わっています。
江戸城で公職に就いていたさる大名は酒好きで知られており、いつも惣花を飲んでいた。ある時惣花が品切れで、家来は江戸中の酒屋を探して惣花とよく似た味を持つ別の酒を用意し、殿様はそれを機嫌よく飲み明かした。
ところが翌日、江戸城での仕事から帰ってきた殿様が家来を呼んでこうたずねた。「昨日飲んだ時には気づかなかったが、朝登城する時に、今までは感じたことのない酔いが残っていた。あれは惣花とは違う酒だったのではないか」
驚いた家来は平身低頭、事の次第を殿様に詫びたそうだ。
明治維新の後も惣花と岸田忠左衛門の名声は衰えず、一八九五(明治二八)年の全国酒造家番付でも、岸田忠左衛門の名前は上位に位置しています。
このように、「惣花」は江戸時代末期から明治時代にかけて、岸田忠左衛門の名前とともに銘酒として知られるようになりました。
加島屋と広岡助五郎
それでは続いて、「加島屋」と日本酒との関わりをみていきましょう。
幕末から明治維新へと続く時代の激変期に、商都・大坂は大きな打撃を受けました。それまで年貢米などの物資の集積地と世界最先端の金融市場として経済発展を極めた大坂でしたが、明治維新になると諸藩の蔵屋敷や堂島米市場は廃止され、大坂商人も幕府や諸藩、次いで明治新政府からの度重なる御用金の供出で財産を減らしていきました。その状況は大坂で一二を争う豪商だった「加島屋」にも顕著な影響を与えていました。
この状況を打開する方策のひとつでしょうか。「加島屋」は明治初年に東京の北新川(現在の東京都中央区新川)に「加島屋東京酒店」を開き、支店長にあたる「支配人」として、「広岡助五郎」という人物を東京に派遣しました。
広岡助五郎は、「加島屋」の分家である「加島屋治(もしくは次)郎三郎家」の当主で、当時の「加島屋」八代目当主である久右衛門正饒の甥にあたります。広岡浅子の夫・信五郎や後に九代目当主となる久右衛門正秋とは従弟の関係です。「加島屋」にとって極めて近しい親族を、東京酒店の責任者として送り込んだのです。
その後、一八八一(明治一四)年に、広岡助五郎は「加島屋」から分離独立する形で「広岡助五郎商店」を設立。「加島屋」と縁が深い元長州藩主の毛利家と東京での取引を続けるなど成長し、現在の全酒類卸業・㈱加島屋に続きます。また、一九〇八年ごろには「加島屋」が設立した加島銀行の取締役にも名前を連ねるなど、独立後も本家との関係は続きました。
惣花と博覧会への出品
これまで惣花をつくり出した岸田忠左衛門と、㈱加島屋の源流となった広岡助五郎をご紹介しました。広岡助五郎がいつ惣花を扱うようになったのかは定かでありませんが、一八七八(明治一〇)年に東京・上野で開かれた「内国勧業博覧会」には、惣花を岸田・広岡の両者協同で出品していることが判りました。
内国勧業博覧会は、「富国強兵」と「殖産興業」を国策として推し進める明治政府が、万博にならって国内の優れた物産や工業品、機械などのプロダクトを一同に集めた博覧会で、初代内務卿であった大久保利通が責任者となって開催されました。第一回の内国勧業博覧会には全国から一万六千余ものプロダクトが集められ、なかでも優れたものに政府から賞牌(メダル)が授与されました。「惣花」は清酒部門に出品し、見事二等にあたる「鳳紋賞牌」を受賞しています。この博覧会の総評にはこのように記されています。
鳳紋 清酒 兵庫県下摂津国莵原群魚崎 広岡助五郎 出品
醸造人 岸田忠左衛門
「惣花を醸造しているこの地は酒造りで世に知られること長く、風味芳烈醇美にして、常に上流社会の称賛を受けている。元の醸造地が酒造りに適しているだけでなく、長年に及ぶ熟練の技術がなければどうしてこのような名誉を得られるだろうか」
さらに惣花は、国内のみならずなんと世界にも認められます。一八八九(明治二二)年のパリ万博。フランス・パリを代表する「エッフェル塔」が建築されたことで知られるこの万博にも惣花は出品され、銀賞を受賞しています。
近代化を推し進める日本は、欧米に対して自国の優秀な製品をPRするため、海外の万博に積極的に出品していました。惣花も、日本を代表する清酒の一つとして出品されていたのです。
このように、惣花を国内外にPRするのに欠かせなかったのが、広岡助五郎と岸田忠左衛門の協働だったといえるでしょう。一八九三(明治二六)年の惣花の広告にも広岡助五郎と岸田忠左衛門両者の名前が記されたうえで、このようにPRしています(文章は意訳)。
この当社の「惣花」は、第一回内国勧業博覧会では鳳紋賞、第二回内国勧業博覧会は有功一等賞、第三回内国勧業博覧会は有功賞を受賞しました。さらにはフランス・パリ万博では銀賞を獲得し、輝かしい名誉は世界中に知られています。万物の霊長たる、社会に活動する人類が、どうしてこの醇酒を飲まないでおれましょうか。全世界の紳士諸君よどうか、惣ては桜の花の下や月光の美しい夜などに、ひときわ特別な真の味わいをお楽しみいただき、より一層のご愛顧を賜りますことを希んでやみません。
醸造元 摂州灘魚崎 岸田忠左衛門
関東一手販売 東京北新川 広岡助五郎
このように、惣花の醸造は岸田忠左衛門が行い、東京を含めた関東一円への販売とPRを広岡助五郎商店がしていたことがわかります。これはほぼ現在の㈱加島屋と日本盛と同じような関係と考えられます。
おわりに
その後、惣花の醸造は岸田忠左衛門から一八九七(明治三〇)年に「西宮企業会社」(日本盛の前身)にうつりますが、広岡助五郎商店との関係は継続し、ついに一九一三年には正式な御用酒として宮中にお納めするようになりました。
こうして惣花は、大正、昭和両天皇の即位式をはじめ、令和となった現代にも、天皇陛下の重要なお祝いの席で供され続けているのです。
現在は空前の日本酒ブームと呼ばれ、海外でも「SAKE」の知名度は急速に広がっています。このブームに先立つこと一〇〇年以上も前から、宮中ひいては国内外でも認められた銘酒「惣花」。その味わいを楽しんでみてはいかがでしょうか。
※本コラムは惣花に関して当社が調査した情報に基づいてご紹介するものです。
なお、日本酒は江戸時代から明治時代にかけて、現在とは異なる商習慣や商標の扱い方があることも補足します。
参考資料
- 『続丹波杜氏』(丹波杜氏組合 一九九五(平成七)年)
- 『皇族画報』(鷹見久太郎 編 東京社 一九一二(大正元)年)
- 『明治聖徳録』(東京国民書院 一九一二(大正元)年)
- 『開国五十年史付録』(開国五十年史発行所 一九〇八〜一〇(明治四一〜四三)年)
- 佐藤寿衛「酒の今昔(二)」(⽇本醸造協会雑誌 一九二八(昭和三)年)
- 宮本又郎「大阪経済の歴史的眺望−伝統と革新の系譜−」(「経済史研究」一七巻 二〇一四(平成二六)年)
- 松村敏「明治期における旧長州藩主毛利家資産の由来と性格−加賀前田家との比較で−」(「商経論叢」五七 二〇二一(令和三)年)
- 高槻泰郎編著『豪商の金融史』(慶応義塾大学出版会 二〇二二(令和四)年)
- 『仏国巴里万国大博覧会報告書』(農商務省 一八九〇(明治二三)年)