歴史研究者からみた広岡浅子
──吉良芳恵先生に聞く
はじめに
吉良芳恵先生(日本女子大学名誉教授)は、二〇一五年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」の放送に伴い、日本女子大学成瀬記念館の『広岡浅子関連資料目録』刊行に携わった歴史研究者です。今回、ご自身の編著『成瀬仁蔵と日本女子大学校の時代』(日本経済評論社)で、日本女子大学校の創立過程における広岡浅子の言動、さらには晩年(第一次世界大戦期)における浅子の思想的変遷を、当時の史料や新聞・雑誌などを用いて多角的に捉える論考を執筆されました。
吉良先生は広岡浅子のどのような点に注目し、どのような功績を残したと評価しているのか。歴史研究者からみた「史実としての広岡浅子」の魅力に迫ります。
吉良芳恵先生
〈略歴〉
一九四八年大分県生まれ。津田塾大学を卒業後、早稲田大学大学院文学研究科修士課程(日本史専攻)を修了。萩原延壽『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』(朝日新聞連載)の資料助手をつとめ、その後横浜開港資料館調査研究員を経て、一九九一年から日本女子大学教員、二〇一七年に名誉教授となる。
主な編著書に『図説 アーネスト・サトウ─幕末維新のイギリス外交官─』(有隣堂 二〇〇一年)、『日本陸軍とアジア政策─陸軍大将宇都宮太郎日記─Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』 (岩波書店 二〇〇七年)、「徴兵忌避者と所在不明者─史料からどうせまるか─」『地域のなかの軍隊8 日本の軍隊を知る─基礎知識編─』 (吉川弘文館 二〇一五年)、「第一次世界大戦と女性の社会進出─女性紙の言説をとおして─」『社会を支える「民」の育成と渋沢─未来を拓く、次世代を創る─』(渋沢栄一と「フィランソロピー」⑥、ミネルヴァ書房、二〇二一年)など。
広岡浅子との出会い
──吉良先生は歴史研究者としておそらく初めて広岡浅子を歴史資料から向き合った方と認識しています。まずは先生が浅子を初めて知った時のお話を聞かせてください。
吉良:NHKのドラマ制作を機に、日本女子大学成瀬記念館が刊行した『日本女子大学成瀬記念館所蔵 広岡浅子関連資料目録』(二〇一五年一月)の編集、特に広岡浅子が成瀬仁蔵にあてた書簡の翻刻(手書き書簡を活字にすること)の監修をした際、書簡を通して初めて彼女の「生の声」を聞きました。「これが女性の書簡か」と思えるほど無駄がなく、必要な事項を的確に表現する筆力があり、とにかく圧倒される内容でした。また、大同生命の寄附による日本女子大学の講座を担当し、その成果として『廣岡浅子関係記事一覧』(改訂版、二〇二〇年七月)を、土金師子・松島彩華さん達とともに編纂しました。
──先生は広岡浅子のどんなところに魅力を感じましたか?
吉良:浅子の意志の強さ、そして頭の回転の速さですね。歴史を専門とする者からみて、これまでほとんど知られていなかった浅子の行動力には目を見張るものがあり、強い意志をもった女性であることが印象的でした。
その後改めて日本女子大学校の設立過程を調べていくと、浅子の足跡が多く出てきました。また開校後も浅子は同校で授業を受け、学生たちに多くの講話・談話など(前掲『広岡浅子関連資料目録』を参照)を残していますが、その言葉はどれも力強く、常に学生を叱咤激励しています。日本女子大学校の設立、そして女性史研究において、彼女の事績や思想は決して欠かせないテーマの一つだと思います。
「広岡浅子研究」の技法
──「ほとんど知られていなかった」というお話が出ましたが、そんな広岡浅子の実像に迫るため、吉良先生はどういうアプローチをされたのでしょうか。
吉良:人物研究の第一歩は、論文などの先行研究や関係資料を通して、その人物の概要をまず把握することです。そして「一次資料」という本人が残したものや同時代の記録などを可能な限り集め、その歴史性などについて分析します。
しかし浅子の場合、これまで歴史研究において注目されてきたわけではなく、また実業家としても立志伝のようなものも存在しません。つまり先行研究がほとんどない状態からのスタートでした。そのため、先ほど申しあげた日本女子大学に残っている浅子の書簡や大学関連の刊行物に残る言説、そして『日本女子大学校創立事務所日誌』の記述などから、浅子の情報を集めました。また、大阪の二大新聞(『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』)や種々の婦人関係雑誌などからも関係記事を探し、少しずつその量を増やしていきました。浅子の場合、「ほとんど知られていなかった人」ですから、逆に既存の分析にとらわれることなく、自由に資料を読み込むことができたと思います。
──膨大な時間がかかりそうですね。
吉良:まだ終わっていませんけどね(笑)。現在女性史研究が進み、さまざまな女性あるいは女性団体の歴史を社会構造のなかで分析し論じるようになっています。しかし浅子が生きた時代は男性を中心とした社会でしたから、女性がどのように生きたのか、そのことが記された資料は男性に比べるとはるかに少なく、またこれまで注目されてこなかったのが実情です。それゆえこうした歴史的存在としての浅子を分析し、未来につなげていくことが必要だと思います。可能な限り、その人物がどのような歴史的・社会的構造のなかで生まれ生きてきたのかを分析し、未来への道をさらに拡げることが必要だと思います。
──「広岡浅子」を研究される際に、特に気を付けたことなどはありますか?
吉良:実業家であり経済人である「広岡浅子」を調べる際、彼女と関係する他の事項にも留意して情報を収集しました。例えば「加島銀行」や「広岡久右衛門」などを含めた大阪の経済状況ですね。単に浅子だけを追っていたのではわからない、大きな時代の流れや背景といったものを十分に理解することが重要だと思います。
ひとつ具体例を挙げると、日本女子大学校の設立運動は、初めは浅子らの協力もあり、大阪に用地を取得するなど順調に進みましたが、途中から停滞します。実はその頃、日清戦争と日露戦争の間に、日本で経済恐慌が起きています。そのため設立活動は一時停滞せざるを得ず、成瀬たちもひたすら耐えるしかない状態が一~二年続きました。
また、『創立事務所日誌』にはそれまで頻繁に登場していた浅子の具体的な行動の記述がほとんどありません。実はこの頃(一八九九年後半)、大阪の新聞では、「堂島事件」という文字が紙面によく登場します。堂島事件とは、堂島米穀取引所を舞台に起きた投機的な動きにより市場が混乱した事件のことです。大阪の財界がこぞって介入して危機を乗り越えようとしたのですが、広岡家はまさにその渦中にあったのです。また、浅子が自ら乗り込んだ潤野炭鉱(福岡県飯塚市)の売却の時期とも重なります。さらには、生命保険事業への進出もちょうどこの頃にあたります。つまり、浅子も恐慌の影響を受けて嫁ぎ先である加島屋の事業をどうやって立て直すか、どの事業に力を入れるかで非常に苦労していた時期だったわけです。
このように日本女子大学校の設立の背景に、日本社会、特に大阪の経済がどのような状況下にあったのか、その視点からの洞察が必要です。
さらに浮き彫りとなった加島屋、浅子の実像
──さて、そのような吉良先生の取組みの成果が、今回『成瀬仁蔵と日本女子大学校の時代』(日本経済評論社)というタイトルで刊行されました。この書籍の概要、そして新たに判明したことなどをお聞かせください。
吉良:私の退職記念論集として、私自身の論文のほかに、これまで日本女子大学で講義等をして下さった先生方にご寄稿いただきました。その第一部「日本女子大学校設立への道─支援と運動」では、日本女子大学校の設立運動のほかに、設立に欠かせなかった支援者として広岡浅子、さらには広岡家、あるいは三井家に関する論文が収録されています。日本女子大学校の設立に関する最も新しい知見だと思います。
──浅子だけではなく、広岡家のことが書かれた論文があることは、非常に興味深いです。
吉良:もちろんこの本では浅子の活躍、あるいは個性が突出していますが(笑)、夫の広岡信五郎、そして加島屋の本家である広岡久右衛門正秋も日本女子大学校にとって重要な支援者でした。浅子だけでなく、広岡家を挙げて日本女子大学校を支援してくださったのですね。その点からも、広岡家がどのように幕末から明治前期の経営危機を切り抜けようとしたのか、そこに浅子がどう関わっていたのかは重要だと思います。
また広岡家が江戸時代から収集していた美術品についても、新しい知見が得られました。二○世紀以降、旧大名家や没落した商家から多くの美術品が流出し、財力のある政治家や新興財閥がそれらを購入したことで「美術品の大移動」が起きたことはよく知られていますが、実はそれより以前の明治一〇年代に、広岡家からまとまった量の美術品が売却されていたことが明らかになりました。広岡家は、経営再建の重要な原資として、美術品の売却を行っていたようです。そしておそらく、その売却を主導したのが広岡浅子だったと思われます。さらに昭和金融恐慌の際も、広岡家は大同生命など関係企業に財政的影響を与えず自己資産のみで加島銀行(一九二六(昭和二)年に破綻)を処分したと言われていますが、これには破綻の翌年に行われた大量の美術品の処分が関係しているようです。経済史がご専門ですが美術史にも造詣が深い、埼玉大学名誉教授の鈴木邦夫先生が緻密に分析し、貴重な論考を寄せてくださいました。
また第二部では、「成瀬仁蔵の思想と女性の社会進出」というテーマで、成瀬仁蔵、広岡浅子、平塚らいてうなどの思想と当時の社会背景を論じています。
こうした多様な視点からの分析により、女性の高等教育機関である日本女子大学校の設立が何をめざしたのか、そして種々の奮闘の中からどのような成果が生まれ、どのような課題が残されたのかなどについて少しでも明らかになれば、今後の研究にバトンを繋げられるのではないかと思います。
──非常に多岐にわたる内容で、とても楽しみです。この本の執筆を通じて、吉良先生は日本女子大学校設立における広岡浅子の役割を、どのようにお考えでしょうか。
吉良:成瀬仁蔵の女子大学校構想にまず始めに賛同したのが、土倉庄三郎(奈良の林業家)と広岡浅子であったことは知られています。土倉や浅子は、社会的貢献をすることに対して共通の認識、それを当然と考える姿勢があったのではないかと思います。
しかし浅子についていえば、より深く女子大学校の設立に関わっています。創設資金を提供するだけでなく、成瀬と同行して政治家や経済人を訪問して設立運動への協力をお願いして回っていますし、九州の炭鉱から成瀬に次のような手紙を送っています。
「発起人組織急務之由(…)当方事業着炭之期ニ際し(…)本月末か来月上旬ニハ必帰阪可致候。夫迄御猶予ハ不叶や。(…)若来月上旬ニ帰阪してハ御計画の基ニ御差支候事ナレハ大事也。此手紙着次第左ニ電報被下候。スグキハンアリタシ(…)当地之用務予メ夫々ヘ命し置一寸立帰り可申候」
意訳:発起人組織を急いで作らねばならないとのことですが、(中略)当方の事業は間もなく石炭の鉱脈に突き当たるところで(中略)今月末か来月上旬には必ず帰阪しますので、それまでお待ちいただけないでしょうか。(中略)ただし、それで計画に支障が出てしまっては大問題です。(そうであるなら)この手紙が届いたらすぐに「すぐ帰阪してほしい」と電報をください。(中略)当地での業務をあらかじめ他の者に命じて、何とか戻れるように致します。
この臨機応変な姿勢など、浅子が単なる支援者にとどまらないことがよくわかります。
──なぜ浅子はそのような関わり方をしたのでしょうか。
吉良:そこがまさに、浅子が置かれた社会状況や環境、そして彼女の個性だと思います。浅子は出水三井家(後の小石川三井家)の出身で加島屋に嫁ぐという、当時の日本では経済的には相当恵まれた家庭環境にありました。しかし、物心がつかないうちに家の都合により結婚相手を決められる、男兄弟がしていた漢籍などの学問を「女であるから」という理由で禁じられるなど、浅子自身は世の不条理、特に男尊女卑への怒りのようなものを抱いていました。別の言い方をすれば、浅子は自身が生きた時代の閉塞感に、女性として真っ向から立ち向かった。それは浅子の、「不自由な時代に対する抗議」「自由への渇望」であり、成瀬仁蔵の女子大学校構想は、浅子にとってその問題を解決する一つの方法だったと思われます。
実際、日本女子大学校の一回生には、高等女学校を卒業したばかりの人のほかに、離婚した人、配偶者と死別した人、結婚して出産をした人など二〇代、三〇代、四〇代を過ぎた女性が、「学問をしたい」、「自立して生きていく術として学問を身につけたい」という強い想いで入学したようです。それこそまさに浅子が求めた「女性の自立・自由」であり、それゆえに、浅子は開校した後も足しげく同校に通い、学生たちを激励するとともに、自らも学んだのだと思います。
また浅子は女子大学校の設立のほかにも、大阪の愛国婦人会の授産事業など、女性の自立化に貢献する活動を種々行っていたようです。自身の資産を、単なる慈善事業ではなく、もっと将来的な視点から使おうとしていたのかもしれません。その奮闘ぶりや力強さに圧倒されますが、単に寄付するだけでなく自らも積極的に事業に関わっていくその姿勢は、社会貢献活動において先駆的な人物でもあったと思います。
──広岡浅子という「ほとんど知られていなかった人物」にスポットライトが当たったこと、彼女の生き方が現在の我々に訴えるものは何でしょうか?
吉良:NHKのドラマのおかげで、私も含め、多くの方々が広岡浅子というパワフルな女性実業家の存在を知ることができました。そして浅子をはじめ、こうした女性一人ひとりの努力の上に現在の我々がいることを再認識させられました。現在も女性の「生きづらさ」が完全に無くなったわけではなく、「いまだ道遠し」と思うことが多いのですが、先輩達が歩んできたように、とにかく臆することなく、「不自由」な状況下にある状態を「自由」な状態に変えていく様々な努力を続けていく必要があります。
広岡浅子というパワーのある女性が、女性として生きづらい社会のなかで、人におもねることなく、威風堂々と自分を貫いたその強さは、我々に元気をくれるだけでなく、「しっかりしなはれ」と背中を押してくれるような気がします。
──本日は貴重なお話をありがとうございました!
*吉良芳恵先生編著『成瀬仁蔵と日本女子大学校の時代』(日本経済評論社)について詳しくはこちらをご覧ください。
関連資料
- 『日本女子大学成瀬記念館所蔵 広岡浅子関連資料目録』(二〇一五年一月)
- 『大同生命保険株式会社寄附授業 廣岡浅子関係記事一覧』(改訂版、二〇二〇年七月)