小橋三四子と広岡浅子〈後編〉
小橋三四子がジャーナリストとして追い求めた社会
 ──宮智泉さんに聞く

はじめに

小橋こばし三四子みよこが編集主任として活躍した、読売新聞「よみうり婦人附録」。読売新聞東京本社の宮智みやちいずみ編集委員は婦人附録の流れを汲む現在の「生活部」に長年在籍し、「くらし家庭面」が一〇〇年を迎えた二〇一四年には生活部長を務められました。二〇〇九(平成二一)年から二〇一三(平成二五)年まで続いた連載「家庭面の一世紀」で、小橋三四子が紹介されています。

今回は宮智編集委員に小橋三四子のこと、「よみうり婦人附録」から現在の「くらし家庭面」に至る流れ、さらには広岡浅子のことなどについて伺いました。

宮智みやちいずみさん

略歴

読売新聞東京本社編集委員。

東京都生まれ。一九八五(昭和六〇)年、読売新聞社入社。「婦人部(現在の「生活部」)」にて、ファッション、働く女性の問題などを担当。二〇〇九(平成二一)年一〜五月、カリフォルニア大学バークレー校ジャーナリズム大学院講師を勤める。生活部長、編集局次長を経て二〇一八(平成三〇)年より編集委員。

「ジャーナリスト」としての小橋三四子

──まず小橋三四子はどんな人だったのか、印象やイメージはありますか?

宮智:小橋さんについては、『こうして女性は強くなった。家庭面の一〇〇年』(中央公論新社)という本にもなった連載企画「家庭面の一世紀」で取り上げましたので、ある程度は知っていましたが、今回改めて色々な資料を読んでみると、ものすごく行動力のある人であり、特に意志の強さが凄いなと感じました。

当時の女性は基本的に、一人の人間として生きるための権利も保障されていませんでした。自分の人生を自分で決めることが難しい時代に、小橋さんがこれだけのことを成し遂げたのは、「鉄の意志」といいますか、「ジャーナリストとしての使命感」が強かったのだと。

──「ジャーナリストの使命感」について、詳しくお聞かせください

宮智:ジャーナリストは、「社会を変えていこう」、「社会の課題を解決しよう」という意志を持って働いています。それは今も昔も変わりませんが、小橋さんはその意識、そして熱量が非常に強い方だった。女性特有の問題、女性が抱える課題を俯瞰的ふかんてきに捉え、それをどう位置づけてどう解決していくのか。そういったジャーナリストとしての視点を強く持っている人という印象を持ちました。

──小橋三四子が書いた記事を読んで、そう感じられたのでしょうか?

宮智:小橋さんが書いていた、「婦人と時勢」という「よみうり婦人附録」冒頭の論説記事があります。その中に、昭憲皇太后の葬儀に際しての大正天皇の恩赦、刑に服している人を釈放したり罪を軽減したりすることを取り上げたものがあります。小橋さんはこの恩赦の話で、こう述べています。

同じく囚人という名の下にあっても、女囚人はわけて憐れに思われます。…(中略)…法律上何の権利もない程幼稚なる世界に住みながらも、刑のみは人並みに等しくこれを受ける身であるという事が、この上もなく気の毒に思われます。私どもは病気について研究すると同じ様に、精神上にも弱い部分を持った囚人の上を、よく知って、これをどうにか助ける方法を考えたいものであります。

「婦人と時勢」(『読売新聞』一九一四(大正三)年五月二八日「よみうり婦人付録」)

当時そのような視点で考える人は、なかなかいなかっただろうと推察されます。何の権利も与えられず、止むに止まれず罪を犯した女性は沢山いたはずで、小橋さんの書いた視点がきっと当時の社会に必要だったと思いますし、これこそがジャーナリズムの仕事だ、と感心しました。

小橋さんの記事からは、そういった女性をめぐる問題をひとつひとつ取り上げ、指摘し、世の中を変えていこう、そんな意識や使命感が強く感じられるのです。

──実に興味深いご指摘です。小橋の生き方からも同じように感じられる部分はありますでしょうか?

宮智:小橋さんが読売新聞を退職した後の話ですが、一九一九(大正八)年、彼女はアメリカに渡り、コロンビア大学で新聞学を研究しています。現在同大学には「ジャーナリズムスクール」という著名な大学院がありますが、あの当時、女性でジャーナリズムを研究しようという方は、かなり珍しかったのではないかと思います。

また、学問としてのジャーナリズムが確立されていたアメリカにおいても、女性の立場は今とはかなり違っていましたし、きっと「ジャーナリズムスクール」で学ぶ女性は少なかったでしょう。

──そういえば、宮智さんも以前にアメリカのジャーナリズム大学院で教えられたご経験があると伺いましたが?

宮智:はい、二〇〇九(平成二一)年に半年間、カリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム専門大学院で講師を務めました。世界中から若きジャーナリストが集まって、そこで日本社会の変化について講義しました。

二〇〇九年というのはちょうど前年にリーマンショックがあって、アメリカは大不況でした。そしてインターネットの台頭によって、アメリカの新聞が次々と破綻していました。「アメリカは民主主義の国であり、新聞は民主主義の番人だ」という一方で、新聞記者がどんどん失業していく……そんな時代でした。

ですので、大学院では、大組織に所属しなくても、自分一人でジャーナリストとして生計を立てるために何が必要かということを教えていました。原稿を書き、写真や動画を撮り、編集し、そのコンテンツをメディアに売り込む、そういった一連のノウハウを、今から一二年も前に、身につけさせようとしていたのです。その中には、フリーランスで働いていくために保険をどうするか、といったテーマなどもありました。アメリカでは、自らの民主主義を守るために、いかにジャーナリズムが必要かを真剣に考えています。また、アメリカでは、ジャーナリズムの世界で、多くの女性が活躍していることも印象的でした。

私が得たことは、小橋さんが一〇〇年前にコロンビア大学で学んだであろうこと、体験したことと繋がっているかも知れません。私と同じく、日本社会との違いや、こんな先を見据えた世界があるとか、女性はもっと活躍できるとか、彼女も色々なものを吸収されたのでしょう。

さらに驚いたのは、小橋さんは日本に帰ってきた時に、東京女子大学で新聞学の講義を準備していたことです。ジャーナリズムがどういうものか、大正時代の日本の女性たちに小橋さんは伝えていこうとしていた。

ですから小橋さんはやはり、ジャーナリズムに対する想い、ジャーナリストが自分の天職だという気持ちがすごく強かったと思いますね。私も小橋さんの新聞学の講義を一度聴いてみたかった(笑)

読売新聞の看板コンテンツと小橋三四子

──小橋が読売新聞「よみうり婦人附録」の編集主任として入社した時の話を聞かせてください。まず一九一四(大正三)年「よみうり婦人附録」の創刊、これは当時としては画期的なことだったそうですね

宮智:新聞の部数も今とは全然違いますが、当時八ページぐらいしかなかった新聞で、その中の一ページを女性のために割くというのは、普通はなかなかできないと思います。ましてや、女性の立場や地位は、今よりももっと低かったわけですよね。この頃女性が学校に行くようになりましたが、読み書きできる女性も男性と比べて少なかった時代に、新聞の一ページを女性のために作るというのは英断でした。

もちろん高邁な理想もあったのでしょうが、それよりも新たな読者獲得の試みだったという面が強かったはずです。でもそれはそれで、目の付けどころがすごく良かったと思います。

──「よみうり婦人附録」創刊直後から、いろいろな企画が立ち上がっています。

宮智:はい、その中で現在まで続いているものが、「人生案内」です。当初は「身の上相談」という名前でした。新聞による人生相談の先駆けとなったものです。

現在の「人生案内」は、読者からの相談に対し専門家や作家が回答するコラムで、読売新聞を代表するコンテンツとなっています。毎朝「人生案内」から読むという人もいるほどで、「人生案内」の掲載位置がちょっと変わっただけで問い合わせがいくつも来る。それほど根強いファンがいます。

「よみうり婦人附録」の創刊が一九一四(大正三)年の四月三日ですが、その約一か月後に「身の上相談」が始まりました。現在の「人生案内」と大きく違うのは、当時は記者が相談者と実際に面会し、紙面でも記者が回答していたことです。「身の上相談」にも「色々な悩みの相談相手となります、お越しいただければ喜んで会います」と書いているのですが、それは今の時代の私たちにはとてもできないことです。

『読売新聞』一九一四(大正三)年七月二日「よみうり婦人附録」、「身の上相談」募集記事

──当時はなぜわざわざ相談者と会ったのでしょうか?

宮智:当時はまだ読み書きができない人がたくさんいましたし、文章を書くというのは、自分の気持ちや考えを頭の中でまとめて表現する行為で、それができない人たちもたくさんいる。そういう人たちのために記者が話を聞き、答えましょうということですね。そういう点では、ものすごく手間と時間をかけていました。

──その「身の上相談」を担当していたのも、小橋三四子でした。「人生案内」は宮智さんもご担当されていた時期があったと伺いましたが、小橋の回答する「身の上相談」にはどんな感想を持たれましたか

宮智:小橋さんが「身の上相談からみた社会」という文章を残していて、そこに当時の仕事について、こう書いています。

「日々たよりない人々から寄する四、五〇通に余る手紙と、三、四人ないし一〇人くらいの来訪者に会って、その身の上相談を受くるのを常と致しております」

小橋三四子「身の上相談から見た社会」(『新女界』六巻一一号 一九一四(大正三)年一一月)

私の経験からすると、新聞というのは毎日発行しているので、肉体的にとても厳しい仕事です。新聞記事にするためには毎日沢山の工程があってそれをクリアしないといけない。締め切りがある。夜遅くまで働く。そんな激務の中で、このように相談者からの手紙に目を通し、相談者と会い、さらには女性記者ゆえの周りのプレッシャーがあったと考えると、小橋さんも相当きつかったのでは、と思いました。

そんなことを考えながら「身の上相談」を読んでみると、割と背中を押してあげるような前向きな回答が多い。それはやはり、女性が抱える問題の解決の糸口を見つけようという姿勢が、彼女にはあったのだと思いますね。そして、相談に来た人だけではなく、同様の悩みを抱えている人たちが、読者の中にもたくさんいらっしゃる。多くの悩める人たちに対して、“こういう風に考えたらどうですか”と解決の糸口を示す姿勢は、現在の「人生案内」にも繋がっているところだと思います。

──なるほど。今も続いている、看板コンテンツたる秘訣なのかも知れませんね。「よみうり婦人附録」の現在の形である「くらし家庭面」について、小橋が生きた時代と現在ではどう変わったのでしょうか?

宮智:私は四半世紀「くらし家庭面」に携わってきましたが、私が最初配属された時は「婦人部」という部名でした。「家庭面」を作ったのは「婦人部」で、女性が女性のために作るというスタンスでしたが、一九九二(平成四)年に名前が「生活情報部」に変わりました。そして現在は「生活部」です。

もちろん今でも「くらし家庭面」の柱の一つは「女性の地位向上」ですが、日本の社会が大きく変わり、特に高度経済成長期以降は扱うテーマが増えてきました。例えば消費者問題や、健康の問題もそう。それから老後の生活とか生活設計の話、保険の話も今では当たり前のように出てきます。

つまり、社会の変化を反映して、女性のページというよりは生活者のため、生活をより良くしていくためのページに変わっていった。それに伴い、部署名も変わっていきました。

生活の問題というのは、女性に限ったものではない、女性だけで解決するものではないということですね。男性も一緒にみんなで考えて社会の課題を解決しないといけない時代になった、ということだと思います。

広岡浅子と小橋三四子──浅子にとって小橋とは

──小橋三四子とも関係が深かった広岡浅子については、どのような印象をお持ちですか?

宮智:私も最初は連続テレビ小説「あさが来た」(NHK)で広岡浅子さんを知ったのですが、浅子さんの文章を読むと、キャラクターとしてはこっちの方がおもしろいな、と(笑)。行動力といい、周りを圧倒する馬力。本当に大した人だと思いました。

浅子さんが『婦女新聞』に、「婦人と経済思想」という文章を書いていますが、そこでは「女性は根本的に経済思想を欠いている」と断言しています。「国債がいくらあるか、輸出入の現況がどうであるか、経済界の潮流がどうであるか、女性が国家の大勢を知らずしては国が立ち行かない」そう言っています。

日本では、お金のことを口にするのははばかられる傾向がありますが、浅子さんは「それは違うだろう、お金のこと、経済を知りなさい」と。また別の文章では、「経済と一致しない道徳は偽善、虚飾だ」とまで言っている。こう言える人って、今でもなかなかいないでしょう。

──強烈な言葉ですね

宮智:小橋さんとは違う強さだと思いましたね。二人に共通しているのは、「女性はもっと頑張れ」という思い。しかし浅子さんは割と檄を飛ばすタイプで、先ほどの「経済を知りなさい」の他にも、「もっと発言しなさい」、「海外へ行きなさい」、「女性が事業の計画者になることが大切だ」、などと言っていて、そこは少し厳しいというか、強い。でもそれが彼女の個性だと思います。

──小橋の言葉とはずいぶんと違う印象ですね

宮智:そうですね、小橋さんはもうちょっと幅広い。彼女はジャーナリストですから、幅広い視点を持って色んな所に目配りをしている。二人とも目指しているところは同じ「女性の自立」というところですが、ただ、そのアプローチの仕方が違っていたのかなと思います。

──浅子と小橋は二〇年来の付き合いがあり、小橋が読売新聞社を退職して『婦人週報』を立ち上げる際にも、浅子は経済的に支援しました。この二人の関係をどう思いますか

宮智:浅子さんが小橋さんをずっと経済的に支援していたのは、ビジネス的な側面が強いと思います。

──ビジネスですか?

宮智:ある意味、一つの投資という部分はあったと思います。推測の域は出ないですが、私も今回浅子さんの書いた資料を読んで、これだけ経済のこと、お金のことを言っている彼女ですから、単に付き合いが古いとか、日本女子大学校つながりですよ、というようなものだけではない。先を見据えての経済支援だったように思います。

──浅子は小橋にどのようなことを期待したのでしょうか?

宮智:浅子さんも、メディアの力を理解していたのだと思います。いつの時代もメディアは重要です。自分が考えていることを、いかに広めていくか。それは浅子さんだけではできないこと。メディアやジャーナリズムがなければ、より広く伝わっていかないわけです。

もちろん、小橋さんのジャーナリストとしての実力や方向性、これは長年の付き合いで、浅子さんも全幅の信頼を置いている。ですので浅子さんも『婦人週報』に期待し、投資したのではないでしょうか。

──浅子は「メディアの価値」を見抜いて、小橋に投資したというわけですね。これも非常に興味深いご指摘です

──最後に、小橋三四子の人生が、女性活躍が推進される現在に投げかけるものをお聞かせください

宮智:小橋さんや浅子さんが生きた時代に比べると、女性の立場は法的に保障され、平等になってきたと思いますが、それでもまだまだ課題は多いのが実情です。

ちょうど今、読売新聞の夕刊で「三〇代の挑戦」という特集(第一、第三火曜日)に携わっているのですが、登場する三〇代の女性たちがみんな非常に独創的で面白い人たちです。社会の課題解決型の組織を立ち上げたり、現代ならではの手法としてデジタルツールを駆使して積極的に発信し、海外とつながってアクションを起こしたりと。これまでと違う価値観・行動で発信する彼女たちの活躍が、より良い社会を作っていくのではないかと、私は大きな期待をしています。

小橋さんも三〇歳で読売新聞社に入社し、三九歳の若さで亡くなるまで、ジャーナリストとして社会の課題を解決するために挑戦を続けた人でした。彼女が目指した社会、それは従来の「良妻賢母」という価値観とは異なる、一人の人間として自立した女性が増えることで、世の中はもっと良くなっていく、そのような社会の実現でした。これは浅子さんも同じことを言っていますし、まさに「よみうり婦人附録」創刊の趣旨とも一致します。

この点において、実はまだ小橋さんや浅子さんの時代から大きく変わっていないかも知れません。日本はもはや成長基調にないと言われていますが、小橋さんや浅子さんのような女性が活躍できる社会になっていけば、まだまだ成長の余地があるのではないか。そのように考えています。

──本日は貴重なお話をありがとうございました!