借金は返された? 大同生命所蔵の新撰組借用書
大同生命特別展示の目玉「新撰組借用書」
広岡浅子と彼女が嫁いだ加島屋に関する歴史的資料を一般公開している、大同生命大阪本社(大阪市西区)の特別展示。本年七月にリニューアルオープンし、たいへん好評を博していますが、特に来館者の方に注目されている展示品の一つに「新撰組借用書」があります。
「預申金子之事」と書かれたこの文書は、金四百両(現在の貨幣価値で約二千万円)を月四朱(〇・四%)の利息で借り、翌年五月までに返済するという内容の証文です。
借用主として署名しているのは、「新撰組鬼の副長」と呼ばれた土方歳三、また、保証人として局長の近藤勇も署名・押印しています。
実は加島屋の他にも、同日同額の証文が鴻池善右衛門をはじめとした大坂の商家十家に出されています。『新選組日誌』(新人物文庫 二〇一三(平成二五)年)の(一八六七(慶応三)年)一二月八日の項に、
「同四千両 大坂山中 組合十家より」
(『金銀出入帳』)
という記録が残されています(「山中」は鴻池家の姓)。また、鴻池家、加島屋(長田)作兵衛家にも同様の借用書が残されており、「慶応三年一二月」「四百両の借用」「土方が借用主で近藤が奥書」という点も一致します。大同生命所蔵の借用書も、この「大坂山中 組合十家」の一つだと考えられています。
新撰組と加島屋の関係
一八六三(文久三)年、鴻池屋に押し借り(借金の強要)に来た浪人を、当時はまだ「壬生浪士組」と名乗っていた新撰組が制圧したという事件をきっかけに、新撰組が鴻池屋にたびたび資金援助の要請をしています。また、加島屋が長州藩のメインバンクであったことから、「禁門の変」の後、長州藩との関わりについて、新撰組が加島屋久右衛門の取調べを行ったこともあります。(野高宏之「加島屋久右衛門と黄金茶碗」『大阪の歴史』第六八輯 二○○六(平成一八)年)
その時は、加島屋が実質的に無罪を勝ち取ったという経緯があります。このように、加島屋をはじめとする大坂の豪商たちにとって、新撰組はなかなか因縁深い相手だったのです。
新撰組借用書の謎
さて、一般的に、新撰組が加島屋から借りたこの四百両は「返済されなかった」とされています。返済すれば破棄、もしくは裏書きして借用主に渡すはずの証文が、貸主である加島屋の手元に残されたままになっているからです。加えて、一八七一(明治四)年前後に加島屋が新政府に提出した「新古中証文之写/旧藩証文写」(未返済となっている諸藩への融資を一覧にしたもの)に、この新撰組の証文も記載されています。
一方、この四百両は「一部返済された」という説もあります。前述『新選組日誌』には、借用からわずか三日後の一八六七(慶応三)年一二月一一日の項に、
「同三〇〇〇両 山中家 十家江返済」
(『金銀出入帳』)
と記載されているのです。これが事実ならば、加島屋が新撰組に貸した四百両のうち、三百両は手元に返ってきたことになります。
この後、一ヵ月も経たない一八六八(慶応四・明治元)年一月三日には鳥羽伏見の戦いが勃発、幕府軍として戦い敗れた新撰組も大坂を退去します。結局、借金は完済されないまま加島屋の手元に借用書が残り、こうして現在、我々が目にすることとなったのです。
さて、鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍が京・大坂からこぞって退去した同年一月下旬、加島屋久右衛門は京・大坂の豪商たちとともに、新政府に呼び出されます。二条城で多くの商人が居並ぶ中、新政府から伝えられたことは「ご一新のために財源が必要であるため、会計基立金を準備せよ」との要請でした。新政府から提示された金額は、なんと総額三百万両。それ以降も「戦費のため」「明治天皇の行幸のため」と、ことあるごとに新政府から要請があります。
この顛末を間近でみていた浅子も、「なんや、新撰組はんへのご用立も可愛らしいもんに思えてきますな」と呆れ顔だったかもしれません。