ただの“ぼんぼん”ではなかった、夫・信五郎の素顔
連続テレビ小説「あさが来た」(NHK)で玉木宏さん演じる白岡新次郎のモデルとなった人物、それが広岡信五郎です。広岡浅子の夫で、生涯彼女のよき理解者であった信五郎については、遊び人としての一面が注目されがちですが、実際は経営者としての功績もあり、また、時代の先を行く「イクメン」でもありました。
今回は浅子の夫・信五郎の素顔をご紹介します。
生い立ち
信五郎は一八四一(天保一二)年生まれ。浅子より八歳年上になります。加島屋八代目当主・広岡久右衛門正饒の次男として生まれた信五郎は、隣接する分家の加島屋五兵衛家の当主となることが早くから決まっていました。加島屋五兵衛家は代々、京・油小路出水の出水三井家(後の小石川三井家)から妻を娶っており、信五郎も同様に、幼い時から三井家の娘との縁談が決められます。その相手が浅子でした。信五郎十歳、浅子はわずか二歳の時でした。
このように親の決めた縁談で夫婦となった二人ですが、関係はとても円満だったと言われています。
数寄者・信五郎
信五郎の趣味は謡と茶の湯だったと言われています。「謡」というのは、能の声楽にあたる部分です。「大同生命文書」には加島屋の歴代当主(久右衛門)やその家族の謡の免状なども残っていますので、加島屋では代々、謡を嗜んでいたことがうかがえます。
このような信五郎や加島屋の人々を、浅子はどのようにみていたのでしょうか。
嫁して見れば、富豪の常として、主人は少しも自家の業務には関与せず、万事支配人任せで、自らは日毎、謡曲、茶の湯等の遊興に耽つて居るといふ有様であります。
浅子は「信五郎や加島屋の人々は少しのんびりしすぎている」と苦々しく思っていたのでしょう。
しかし、信五郎のこの趣味が、後の実業にも繋がっていくのです。
紡績業での活躍
信五郎が嗜んだ謡や茶の湯は、同時に大阪商人の上流階級の嗜みでもありました。同じ趣味を持つ者が集まり、そこでビジネスの相談などもしていたと思われます。
この信五郎が謡仲間とともに出資した企業、それは大阪が一丸となって取り組んでいた紡績業に関わるものでした。
一八八九(明治二二)年、大阪の財界と尼崎の財界人が共同出資して設立されたのが「尼崎紡績」です。信五郎は、謡の仲間でもあった木原忠兵衛や福本元之助らとともに、最大額の出資者として名前を連ねただけでなく、尼崎紡績の初代社長に就任しました。
しかし、その二年後には社長の座を譲り、監査役に就きます。やはり“ぼんぼん”、すぐに経営を投げ出したのかと思いきや、このポジションに一九〇四(明治三七)年、つまり彼が亡くなる年まで留まり続け、重役会議にも出席していました。この尼崎紡績は、現在の機能素材メーカー「ユニチカ」へと発展していきます。
また信五郎は、前述の木原や福本らと、大阪でも綿花調達のための商社、「日本綿花」の立ち上げに関わり、発起人の一人となっています。この日本綿花は後に「ニチメン」と名を変え、現在の大手商社「双日」へとつながるのです。
尼崎の市外局番「〇六」の謎
兵庫県尼崎市の市外局番は、大阪府大阪市などと同じ「〇六」番です。近辺にお住まいの方は、なぜ違う府県で同じ市外局番を使っているのか、不思議に思ったことがあるのではないでしょうか。実はこれにも、信五郎が関わっています。
一八九三(明治二六)年、尼崎紡績は当時まだ市内で普及していなかった電話を自社に引くため、自費で大阪電話交換局から同社の大阪支店、そして本社までの電線と電柱の工事を行いました。そしてそれを、そのまま尼崎市に寄付したのです。これが、尼崎市における初の電話回線開通でした。
当時では画期的だったこの電話線の敷設を決めた同年の経営会議に、実は信五郎も出席していました。
この経営会議の「決議録」には、このように記されています。
大阪出張店より大阪電話交換局まで社費を以て電柱架設の落成のうえ、逓信省へ上納方出願すべく事
その後、一九五四(昭和二九)年に尼崎局の大阪局編入が決定、さらに八年後の市外局番整備の際に、大阪市と同じ「〇六」が割り当てられたのです。
信五郎は元祖・イクメン?
さて、信五郎と浅子の間には、一八七六(明治九)年に一人娘・亀子が誕生します。浅子にとっては相当の難産で、それ以来浅子は子どもを産むことをあきらめ、事業に専念したと言われています。
その頃、浅子の育ての親である三井高喜が信五郎に宛てて記した書簡の草稿が、三井文庫に所蔵されています。
一昨五日に出帆したことについて、広岡久右衛門正秋様・お浅殿・川上勢七氏・嘉兵衛殿がご同船して、皆ご機嫌よくお乗り込みなされましたこと、私にとっても悦ばしいことです。
(中略)
皆さまがお留主中、ただお寂しくおられるであろうと、遠くより案じておりますおかめさまにも、ご無事にお留主なされているとのこと、悦ばしいことです。
この草案は、信五郎が高喜に出した便りの返事と考えられます。信五郎からの書簡では、浅子と義弟・正秋が商談で東京に赴いたこと、そして母親の浅子がいない間でも、娘・亀子が元気でいることを高喜に報告しています。つまりこの時、信五郎は大阪の加島屋で留守番をしながら、娘の面倒までみていたのです。
妻が事業に専念するなか、留守を守り、生まれたばかりの娘を見守る信五郎。信五郎の素直な性格を伺えるエピソードです。
浅子が「女性実業家の先駆け」ならば、信五郎はさながら「イクメンの先駆け」といったところでしょうか。
引用資料以外の参考資料