発見! 加島屋当主と妻の手紙
今回のコラムは二〇一五年一一月に築地本願寺で開かれた本願寺史料研究所公開講座「『家康側室と豪商の妻』~残された手紙 側室お亀の方・連続テレビ小説モデル 加島屋一族と本願寺の知られざる関係」で発表された内容を、同研究所および同研究所上級研究員である大喜直彦氏の許可を得て再構成したものです。
西本願寺から見つかった新出史料
今年(二〇一五年)、本願寺史料研究所が所蔵する西本願寺関連史料の中から、加島屋に関する貴重な史料が発見されました。加島屋の創業者である初代加島屋久右衛門正教の妻・妙意自筆の仮名消息(平仮名もしくは平仮名に変体仮名、漢字を交えて書かれた書簡)です。さらに、幕末の八代・正饒と九代・正秋の書簡も発見されました。これらの貴重な史料を紹介しながら、加島屋と西本願寺との関係を見ていきましょう。
初代の妻・妙意の仮名消息
「妙意」というのは法名で、俗名は「禄」。
本願寺史料研究所所蔵『長御殿御日次之記』の一七〇二(元禄一五)年五月四日条に、妙意の三回忌に関する記述があるので、彼女は一七〇〇年に亡くなったと考えられます。
この仮名消息は、妙意が西本願寺の女官「かいつ」に宛てたもので、現代語訳は、次のようになります。(以下、現代語訳はいずれも大喜直彦氏によるもの)
早々にお手紙を頂き、ありがとうございます。栄儀院様をはじめ、寂如様・幸君様、御機嫌よくご繁昌のことたいへんめでたく思っております。さらに日頃より住如新門様も御機嫌よく、ことのほかご繁昌な様子、ひときわめでたく思っております。
寂如宗主のお心づかいにより、広岡久右衛門は、都合よく運び免許を頂き、たいへん感謝しております。広々となり本当に喜んでおります。寂如宗主もお察しのとおり、久右衛門にしてみれば、計り知れぬ程ありがたく、たいへんめでたいことです。以上。
繰り返しになりますが、寂如宗主ほか皆様に、よろしくお伝えください。当地(大坂)の御堂(津村別院)もたいへん繁昌して、本当にうれしく感じつつ申し訳ないほどです。ご様子いかがと急ぎ申しあげました。めでたきことに存じます。以上。
本文からは、この仮名消息が西本願寺への返信であること、当主・久右衛門が何らかの免許を本願寺から受けたことが分かります。
ここで注意したいのが、「久右衛門」がいったい何代目を指すのか、という点です。妙意という法名を名乗っているのは、既に彼女が出家していることを意味します。おそらく夫である初代・正教は既に亡くなっているため、この久右衛門は二代・正保と考えられます。
また、妙意の署名に「かしまや(加島屋)」と書かれていることもポイントです。初代が亡くなって二代目が跡を継いだばかりであるため、先代の妻である彼女が加島屋の代表として出した仮名消息と考えられるのです。
このように、加島屋の繁栄は、妻・妙意の存在なくしてはありえなかったと考えられるのです。この仮名消息からわかることは実に沢山ありますが、何よりも女性が表に出ることがまれな時代に、貴族や武家以外の女性の仮名消息が残っていること自体が、大変貴重なことです。
さらには、初代久右衛門に直接関係する人物の仮名消息が発見されたという点も、いまだ不明点が多い「加島屋創業期」を理解するうえで非常に貴重といえます。
正饒と正秋の書簡
今回、本願寺史料研究所の所蔵史料から、八代・正饒と九代・正秋の書簡が計八通見つかりました。どちらも広岡浅子と深い関わりのある人物です。(それぞれ浅子の義父と義弟)
この書簡の内容は全てその時どきの挨拶状であるため、加島屋の当主が西本願寺の門主と代々親密な関係にあったことがわかります。
この書簡で注目すべきは、正饒や正秋が自分の名前を書いているところです。商売上の書類や書簡には、全て代々襲名する当主名「加島屋久右衛門」を記します。このように名前が書かれていることから、これらは全て西本願寺門主や関係者に宛てて記した「自筆の書簡」であると考えられます。
それでは、筆跡から実際の人物像をイメージしつつ、この挨拶状をご覧下さい。
一筆啓上致します。たいへん寒い時節、広如宗主はご機嫌よくおられ、たいへん喜んでおります。恐縮ながら、寒中のお見舞いとして、愚札を差し上げます。どうぞ宜しくお取り成しお願い申し上げます。
一筆啓上致します。甚だしく暑い時節、広如宗主はご機嫌よくおられ、たいへん喜んでおります。恐縮ながら、暑中のお見舞いとして、一籠の蒲鉾を献上致します。何かのついででかまいませんので、どうぞ宜しくお取り成しお願い申し上げます。
加島屋と西本願寺
加島屋は、一六二五(寛永二)年に、初代が大坂・御堂前(現在の北御堂・津村別院[大阪市中央区])で精米業を始めたことが創業と伝えられています。
これらの書簡からもわかるように、加島屋は創業時から西本願寺の有力な門徒でした。
また、加島屋は西本願寺の修学機関である「学寮」(のちの「学林」)にも積極的な援助を行い、これが現在の龍谷大学につながっていきます。
このように江戸時代を通じて、加島屋が西本願寺と親密な関係にあったからこそ、今回の新史料の発見につながりました。
本願寺史料研究所には、まだまだ多くの未整理史料が残されており、その中から、今後も加島屋に関連する史料が発見される可能性も残っています。
今後、さらに研究が進むことを期待したいと思います。