浅子が求めた人材とは? 加島屋の奉公人制度と浅子の人材改革
経営者として浅子が最も重視していたこと、それは「人材育成」でした。特に加島銀行設立後、加島屋が近代的な企業形態へと変わっていくなかで、旧来の奉公人制度に基づく人材育成の仕組みを変えようとしたのです。
まずは、加島屋の奉公人制度がどのようなものだったのかをご紹介します。
加島屋の奉公人制度
江戸時代から二五〇年続く大坂の豪商・加島屋では、基本的に仕事場と住まいが一体となった共同生活を送っていました。そのため、主人と奉公人の関係は親子に喩えられ、家族的意識がとても強い組織でした。
奉公人には丁稚から手代、そして番頭へと昇格する年功序列の人材登用制度があり、他の商家でも基本的には同じ仕組みだったと考えられています。
- 丁稚:一〇〜一三歳前後で住み込み無給の見習いとしてスタート。読み書きや算盤の習得、雑用やお使いなどを通じて、商売の初歩を学んでいきます。
- 手代:丁稚として一〇年程度、または一八〜二〇歳頃に元服(成人)すると手代となり、接客など具体的な店内業務に就くようになります。
- 番頭:手代として五〜六年勤務し、特に認められたものが番頭となりました。番頭になった後は、のれん分けが許されて店(別家)を構えるもの、店内でさらに出世し、経営に携わるものがいました。
加島屋の就業規則を記した「店方定書」や、のれん分けを許された時に奉公人が差し出した誓書などをみると、
- 共同生活のルールを遵守し、年下の奉公人をよくしつけること
- 質素倹約を常とし、許されたもの以外の贅沢をしないこと
- プライベートなことも全て主人に相談し、指示に従うこと
などが、奉公人に求められたということがわかります。
浅子の人材育成
江戸時代の大坂では、何よりも奉公人の経験が重視され、少数の熟練奉公人を育成するための長期雇用が商家の主な雇用体制でした。
しかし、明治になり加島屋が広炭商店、そして加島銀行へと業務を転換するにつれ、事業の拠点は大阪だけでなく九州、全国各地へと広がり、九州の炭鉱や銀行の各支店でも従業員を雇用する必要が生じました。さらには住み込みから通勤給料制へと勤務・俸給体系が変わった結果、旧来の少数の熟練奉公人を育成するための長期雇用という制度が成り立たなくなってきます。
そこで浅子は、加島屋を近代的な企業グループにするために、従来の奉公人制度に依存しない新たな人材育成の必要を感じたのです。その時に浅子の力となったのが、日本女子大学校設立に向けてともに奔走していた、成瀬仁蔵でした。
浅子は成瀬の紹介で若く優秀な学卒者を加島屋に入社させます。そして自ら指導し、能力に応じた役職を与えることで加島屋の改革を進めようとしました。
浅子の人物評価
成瀬の紹介で加島屋に入社した若者たちがどのような働きぶりをしているか、浅子が成瀬に報告している書簡が残っています。浅子がどのように人を育て、またどのような視点で人を評価していたのかがわかる、大変興味深い内容となっています。
「宮崎」は、実に頑張り屋、熱心な人で、商売好きです。少しも休まず働き、真面目で表裏がありません。ただ残念なことに、学力がないため物事を順序立てられず、まとまりが悪いという欠点があります。しかしこれも追々改めることができると思いますので、貴重な働き手の一人です。
「有阪」は、物事の順序がわかっており、また仕事熱心です。今日では商売を理解し、私の考えも理解している様子で、一般的な事に気をつけるようになりました。追々申し聞かせたら、進歩的な商人になるのではないかと楽しみです。ただ欠点は苦労知らずで金遣いが荒く、無駄が多い点です。金儲けの難しさを知れば改心できると思いますので、とにかく他人事にはせず、熱心に注意しております。
「新田」は、追々要領もわかって忠実に仕事をしているため、業務の一部分を任せるには何ら欠点のない人物です。しかし自らの意見を出させると、とたんに小さくなります。一部業務の主任程度が適当な人材です。
「渡邉」は実に努力家であり、朝早く出勤して仕事をしております。また誰かに用事を言いつけられても嫌がらず、子どものような用事でも嫌そうにはせず、しかも商売のことも熱心に宮崎・有阪より学んでおります。また多用な時にはこちらが指示しなくとも夜まで仕事をしており、また用事を他人に押し付けるようなことは全くなく、ちょっとした用でも自分でするなど、行いは忠実熱心なので、今日では宮崎や有阪が留守の時でも用向きを勤められるように思えます。また外国への通信や電信等も差しつかえなく、昨日、金十円を賞与しました。
人は見かけによらぬもの。この渡邉はご承知の通り知者ではありませんが、熱心さと忠実さで他の者より事を早く覚えることができています。
このような人物評から、浅子が人を評価するのは、
- 誰よりも努力し、仕事に熱心である
- 自分の頭で考えて行動し、人の役に立てる
- 業務の流れや物事の道理を正しく理解し、実践できる
といった点であったと言えます。
「私と一緒に仕事をすると……」
この一連の人材育成の手応えを、浅子は成瀬への書簡でこのように書き記しています。
(成瀬)先生が大阪に来られることがあれば、現在の事業の進歩は随分と変化したと感じていただけると存じます。中川(小十郎)も帰ってきた時に、皆が激しく努力をし、整理ができてきた、と驚いておりました。
この浅子の積極的な人材育成と、自らがきめ細かく指導・評価することで、加島屋の従業員の意識を大きく変えることに成功しました。しかし、この目覚ましい進歩の陰で起きていた「あること」も、浅子は書簡で正直に報告しているのです。
浅子と一緒に仕事をしている「中山」という人物を例に出して述べたこと、それは自分と仕事をすることが、いかに大変かということでした。
最後にこの部分をご紹介します。
私と一緒に毎日の業務をおこなう者は、随分くたびれます。中山のような者は相変わらず誠意はあるのですが、日々の業務に追いまくられておるようです。しかし「年寄りでも進歩せねばならぬ、そうでなければ若者に馬鹿にされる」と道理を申し聞かせ、修行中の気持ちでしばし我慢せよと伝えています。
私の方は益々無病にていささかの苦しみも感じておりません。理事と支配人との職務を兼任しておりますが、なお余裕のある気持ちでございます。六十才までは大丈夫と、このごろは感じております。何とぞ御安心下さい。
〈主な参考資料〉
・『広岡浅子関係資料目録』(二〇一六年 日本女子大学成瀬記念館)
・千本暁子「三井の使用人採用方法の史的考察」(『社会科学』第四二号 一九八九年 同志社大学人文科学研究所)