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加島屋の教育制度

住み込みの奉公人たち

以前のコラムで、「加島屋の奉公人制度」についてご紹介しました。

そこで触れたように、江戸時代の商家において、奉公人の多くは住み込みで働いていました。そのため、主人と奉公人の関係はしばしば「親子」にたとえられ、現在の企業にくらべ、非常に家族意識が強く、結びつきも強いものでした。

奉公人たちは、「丁稚」と呼ばれる身分からそのキャリアをスタートします。丁稚になる年齢は一〇〜一三歳程度のことが多く、そこから修業を積んで「手代」、「番頭」とキャリアアップし、その手腕を認められてのれん分け(独立開業)を許されることもありました。

さて、今回のコラムでは、家族とも言える奉公人たちに、加島屋がどのようなルールを定め、教育を施し、そして独立を支援したのかをご紹介したいと思います。

「店方定書」に見る奉公人のルール

加島屋が、江戸時代後期の一八〇三(享和きょうわ三)年に定めたとされる、「店方たながた定書さだめがき」という文書が残っています。連続テレビ小説『あさが来た』(NHK)で、加野屋の面々が朝会で「定」なるものを唱和するシーンが登場したのを覚えておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

こちらの「店方定書」は、奉公人が守るべきルールを示したものです。

一、勤務を怠けぬこと。

二、毎朝掃除が終われば席順に座ること。

三、幼い奉公人はよく躾け決して叩かぬこと。

四、四月一日から九月八日まで足袋の使用を禁止すること。

五、贅沢な小物を持たぬこと。

六、病気のときは薬を与え好きな食事を与えること。

七、月に三度、簡単な肴をつけ酒盛りをすること。

八、店が暇なときは午後からは碁・将棋を許すこと。

九、私用の外出は月に三回までとすること。

現在の企業の就業規則と比べれば、ずいぶん簡素ですが、ここから当時の商家特有の事情や、加島屋の理念を読み取ることができます。

たとえば三条目は、数え年で一〇歳ほどの子どもが丁稚として奉公する当時の商家ならではのものです。

江戸時代、現在のような義務教育制度はありませんでしたが、江戸後期には庶民のための教育機関として「寺子屋」が普及していました。丁稚たちは、寺子屋に通うような年齢で奉公に出ることになるため、無給の住み込みながら、謝礼を払わずに読み書きや算盤そろばんなどの指導を受けつつ、商人としての基礎を学んでいきました。

江戸時代の日本では、識字率が高かったといわれています。論者にもよりますが、男子で五〇%近く、女子でも一五%にのぼったという推計もあります(ロナルド・ドーア『学歴社会 新しい文明病』)。この高い識字率の背景として、「寺子屋」の存在が注目されがちですが、加島屋のような商家が果たした役割も見過ごせません。

さらに、商家において、丁稚たちは読み書きだけでなく商売のやり方も学ぶことができました。識字率の高さ、そして商売に対する高いリテラシーは、明治以降の日本の近代化とも、決して無縁ではなかったと考えられます。

また、番頭や手代が丁稚をよく教育する一方で、体罰はきつく戒めるこの条文からは、加島屋が幼い丁稚たちを、長く奉公してくれる家族のような存在として、しっかりと育てていこうとしていたことがうかがえます。

六条目以降は福利厚生にかかわる条文になっています。加島屋は、奉公人たちに対してルールを定めましたが、それらは決して彼らを縛り付けるだけではなく、適度な息抜きをしながら、伸び伸びと働き、商人として成長していけるような制度になっていたのです。

手厚い独立支援

さて、丁稚から勤め上げ、番頭になった奉公人には、のれん分けが許されることがありました。

七代目当主・久右衛門正愼まさちかの時代である一八一七(文化一四)年の「御請おんうけ一札之事いっさつのこと」という文書は、「祐助」という人物がのれん分けに際し「御本家御店 当役 仙助殿」(のれん分けの担当者と考えられる)に宛てたものです。

ここには、次のような内容がしたためられています。

一、お上の法令や加島屋の家法を順守します。

一、歴代当主の命日は慎みます。

一、宗旨変えは致しません。

一、不行き届きがあったときは、加島屋の屋号を取り上げられても構いません。

一、結婚など家庭内のことに関しても、御本家様の指図通りに致します。

一、どんなに商売が繁盛しようとも、新しく家を買うときには間口五間(注:約九メートル)以内と致します。

一、御本家に火災が出たときは、遠くにいてもすぐに駆けつけます。

これは、現在でいう誓約書のようなものです。

三条目では、加島屋本家と同じ宗派(浄土真宗)を信仰することがあがっています。また、六条目は、間口の広さによって税率が変わる当時ならではの記述ですが、必要以上に大きな屋敷を構えない事を誓っています。

のれん分けしていく奉公人がこういったものを差し出した背景には、加島屋による手厚い支援がありました。

この「祐助」に対し、加島屋がのれん分けとして贈ったものは、以下のようになっています。

一、「加島屋」の屋号

一、妻子手当銀

一、仏壇

一、熨斗のし

一、家具一式

一、夜具一組

一、蚊帳一張

加島屋は大坂を代表する商人であり、その屋号は大きな威力を発揮したと考えられます。また、「妻子手当銀」は一種の開業資金と考えられます。

さらには、取引先の一部も与えており、独立していく奉公人は、すぐに店を構えて商売をはじめることが可能だったのです。

巣立っていった多くの奉公人たち

このようにして祐助のような奉公人が加島屋から独立していきました。

丁稚奉公の時代からしっかりと教育を施し、一人前の商人として成長した後には手厚く独立支援も行う──加島屋はただ単に自家の利益だけを考えるのではなく、「人を育てる」という思いやりを持った商家でもあったのです。