広岡浅子の実家・三井家

広岡浅子の実家である三井家は、江戸時代にはすでに、京・大坂・江戸に店を構える「日本最大の企業グループ」でした。その規模の大きさゆえ、「三井十一家」という同苗どうみょうで資産と事業を共有していました。

今回のコラムでは三井家の歩みに触れつつ、浅子の実家である「小石川三井家」や、加島屋に嫁いだ後の彼女と三井家の関係についてご紹介します。

三井家の歩み、初代と殊法しゅほう

三井家の発祥は、伊勢国・松坂出身の三井高利たかとしに遡ります。十四歳で江戸に出て修行した高利は、江戸と京に呉服店を開き、一代で日本を代表する商人となりました。

その特徴は、世に名高い「現金掛け値なし」。当時としては画期的な「現金払い」「販売価格の固定」で、不特定多数の顧客を店に呼び込むことに成功しました。新たな政治の中心地として急激に人口を伸ばしつつあった江戸にマッチしたこの商法で、出店からわずか十年で売上高を五倍にするという、空前の大成功を収めたのです。

その後、小売業の呉服店と、幕府の公金を扱う「為替御用」を主軸とした両替店(金融業)に機能を拡大させた三井家は、「三井十一家」と呼ばれる同苗に分かれ、惣領家そうりょうけである「北家」を含めた九家が京に居宅を構えることになります。そのうちの一つが、京・油小路出水に居を構えたことから「出水三井」と呼ばれた、後の「小石川三井家」です。ここで浅子は幼少期を過ごすことになります。

浅子が幼少時代を過ごした、油小路出水の三井家屋敷。
現在は「ホテル・ルビノ京都堀川」が建つ。
(三井寿天子追悼集『雪の香』より)

ちなみに、それ以前の三井家にも偉大な女性経営者がいたのはご存じでしょうか。高利の父・高俊たかとしは、松坂で酒屋・味噌屋・質屋を兼ねる商人でしたが、これを実際に経営していたのは、妻の殊法しゅほうだったといいます。後に「三井家商いの元祖」と敬われ、高利ら三人の息子を一流の商人に育てた、やり手の女性でした。

(参照:三井文庫編『史料が語る 三井のあゆみ―越後屋から三井財閥―』二〇一五年、吉川弘文館)

浅子育ての親、義兄・高喜たかよしの活躍

さて、浅子の実家である小石川三井家(当時は「出水三井」と呼ばれていました)に話を戻します。

浅子が誕生した一八四九(嘉永二)年、三井家の当主は、浅子にとっては義兄であり父親代わりでもあった、三郎助さぶろうすけ高喜でした。「三郎助」というのは京両替店の御用名前ごようなまえで、高喜は京両替店の責任者を務める三井の中心的な人物でしたが、激動の幕末に、いち早く薩摩、そして新政府側への接近を図った、「時代の先」を見据えた商売人でもありました。

一八六七(慶応三)年十二月、王政復古の大号令により新政府が樹立されると、新政府は金穀出納所(後の大蔵省)を設置します。その両替御用(公金の運用を行う役目)に、三井三郎助、つまり高喜が就任したのです。新政府御用の筆頭商人となることで、三井家はさらなる飛躍のきっかけを掴みます。

三井高喜

後年の浅子と実家・三井家

それでは、加島屋に嫁いだ後の浅子と三井家との関係はどのようなものだったのでしょうか。浅子が嫁ぐ時、実家である三井家も、そのお転婆ぶりを大いに心配したそうです。三井家に出入りしていた人々ですら「めでたいことが、めでたくなくならぬように」と気遣ったというエピソードも残っています。

(参照:「本邦実業界の女傑(二)(広岡浅子)」『実業之日本』第七巻二号、一九〇四年)

しかし激動の時代は、嫁ぎ先の加島屋を危機に陥らせる一方、浅子を女性経営者として奮起させることになりました。その際、一番頼りになったのは、実家の三井家でした。財産の整理のために東京に滞在していた時も、浅子は深川にあった三井家の別邸に住まい、諸大名の屋敷を往復していました。

(参照:「活力主義-成功の資本はこれ一つ-(上)」『婦女新聞』四三八号、一九〇八年)

また、新規事業として炭鉱業を手掛け、石炭を海外へ輸出する際や潤野うるの炭鉱を再開発する際も、浅子は三井物産や三井銀行から協力や融資を仰いでいます。その頃のエピソードにこのような話もあります。融資の依頼に実家を訪れた浅子は、相手が融資を渋っていると、

「私もそのままおめおめと帰るわけにはいきません、やはり離縁するより他はありません」

と言い放ち、困りはてた実家から、見事融資を勝ち取ったということです。

(参照:佐瀬得三『名流の面影(加島屋浅子)』一九〇〇年、春陽堂)

三井十余家の人物中で、最も秀でた人

しかし、浅子は三井家に資金の援助要請をしていただけではありません。

三井の惣領家である北家の若き当主・高棟たかみねの結婚に際しては、浅子が話を持ちかけ、大阪の豪農・橋本家の娘・幾登きと(貴登)を夫・信五郎と自分の養女にした上で、高棟のもとに嫁入りさせました。

浅子が「愛弟」と呼んだ、高喜の嫡男・三郎助高景たかかげの妻・寿天子すてこも同様に、広岡家の養女となり、その後高景のもとに嫁いでいます。

このように加島屋に嫁いだ後も、浅子は公私ともに三井家とは密接な関係を築いていました。日本女子大学校設立の際には、三井家も一族を挙げて協力体制をとり、目白にあった土地を提供したことも、忘れてはなりません。

浅子と三井家の関係について、両者をともによく知る大隈重信は、こう評しています。

「浅子は女であるものの、恐らく三井十余家の人物中で、最も秀でた人であろう。初めは浅子が加島屋復興のため、おうおう三井家に談判を持ちかけしたため、三井家でも多少持て余しの模様もみえたが、人生の戦場におけるこの勇者は、今や三井家より大いに歓迎されるに至り、なにか三井家の重大会議でもあれば、浅子は是非とも列席して、意見を陳述せざるを得ざるようになったのである。」

「本邦実業界の女傑(四)(広岡浅子)」 (『実業之日本』第七巻四号、一九〇四年)

まわりが心配するくらいのお転婆娘だった浅子が、後に「三井十余家の人物中で最も秀でた人」と呼ばれるほどにまでなったのです。高喜はこの点でも「時代の先」を見据えていたのかもしれません。