「浅子のもとで働く」ということ〜広岡浅子の人材育成論〜

以前のコラムで広岡浅子を支えた幹部社員についてご紹介しました。

今回はさらに、主任クラスの事例にも触れながら、浅子が社員の教育に込めた想いをご紹介します。

一八九八年頃の広岡浅子

浅子の人材育成論

浅子のもとで働いた人材について語る際に欠かせないのが、成瀬仁蔵の存在です。

炭鉱の再開発のために頻繁に大阪と九州を往復しつつ、さらに日本女子大学校の設立にも奔走していた一八九八(明治三一)年から一八九九(明治三二)年にかけて、浅子は加島銀行や広岡商店で働く人材の紹介を、成瀬に依頼しています。この時期、成瀬の紹介により入社した人物が少なくとも四名確認されていますが、その一人が、加島屋幹部として三社合併による大同生命の創業に尽力し、後の立命館大学の創立者となった中川小十郎です。

成瀬仁蔵(提供:日本女子大学成瀬記念館)
中川小十郎

当時の浅子は、人材を紹介してくれた成瀬に対し、四名の社員の勤務状況や評価を、こと細かく手紙で報告しています。そこに、浅子の「人材育成論」ともいうべき興味深い記述があるのでご紹介します。

朝、私は八時三十分には必ず出勤し、夕刻まで店におりまして、大事も小事も必ず報告を聞くようにしております。夜は学問の見聞などをなし、日曜は各支店の者等、用件をもって来店する者と会い、主義で感化させ努力させるよう、ある者は教えさとし、ある者は叱りつけて、終日暇がありません。店員も怠慢な者や悪気の者などの過ちを正し、追々学生を入れて改良に改良を加えて進歩していくよう、一心に務めております。

(一八九九年四月一二日付 成瀬仁蔵宛て 広岡浅子書簡)

ここで注目したいのは、浅子が使用している「主義」という言葉です。『広辞苑』によれば、「主義」は福地源一郎(桜痴おうち)による“principle”の訳語として明治以降に広まった新しい言葉です。浅子のいう「主義で感化させ努力させる」とはすなわち、地位や立場を利用して強制するのではなく、経営者の考えや方針をしっかりと社員に伝え理解させた上で、一人ひとりが自ら考えて行動することを促すという、浅子の教育方針です。

実際のところ、浅子が社員を評価する際には、自らの考えに対する理解度と自主性を重視していることが、成瀬に送った別の手紙からもみてとれます。

中川は欠点もありますが、とにかく責任感をもって事をなし、一部分だけでなく全体を常に頭に描いておりますので、今日では私の考えを深く理解している様子です。

宮崎は実に勉強熱心な人で、商売に向いています。少しも休まず、表裏がありません。ただ残念なのは、学力がないため物事を順序立てず、まとまりが悪いという欠点があります。しかしこれもおいおい欠点を改めていくようにすればよいだけで、得がたき働き手といえるでしょう。

有坂は意外にも物事の順序を理解し、また随分に熱心でございます。今日では商売っ気もかなり出てきており、私の考えもしっかり理解している様子で、色々な事に気を配るようになりました。追々教育していけば、開明の商人に成長するのではないかと楽しみです。

新田は徐々に勝手もわかり、忠実にして一部を任せるのは実に欠点のない人物です。しかし自らの意見については極めて声が小さく、一部の主任が適当かと思います。

四人とも多少の欠点はありますが、とにかくいずれも信用ができて各々の長所を伸ばせば将来にも望みがあり、当家にとっての利益も少なくないと考えます。

(一八九九年三月三一日付 成瀬仁蔵宛て 広岡浅子書簡)

浅子が絶賛した有坂忠平

さて、成瀬が紹介した四名のうち、浅子が「物事の順序を理解し、私の考えもしっかり理解している」「開明の商人に成長するのではないかと楽しみ」と褒め称えた「有坂」、有坂忠平という人物のその後を追ってみました。

有坂忠平(有坂弘 編『有坂忠平』、一九三八年 より)

有坂忠平(一八七三(明治六)〜一九三六(昭和一一)年)は新潟県出身。当時新潟女学校で校長をしていた成瀬仁蔵、そして後に日本女子大学校第二代校長になる麻生正蔵と出会い、彼らの影響を受けて同志社英学校に進学します。同校卒業後は日本郵船に入社、その後すぐに、成瀬の紹介で浅子が経営する広岡商店に入社しました。有坂が二十代半ばのことです。

広岡商店における有坂の担当業務は、当時「アルカリー」と言われた商品の輸入と販売でした。アルカリーとは塩から生成できるナトリウム化合物のことで、ガラスやレーヨンの製造に必要な材料です。家庭で使う重曹(炭酸水素ナトリウム)の製造にも必要です。まさに近代以降の人々の暮らしには欠かせない原料の一つといえるでしょう。

実はこのアルカリーも、成瀬の紹介により始めた事業であることが、浅子の手紙で明らかになっています。

アルカリーは、全く先生のご尽力により、将来かなりの有望な商売になりました。既に四回の注文を致しまして、第一回・第二回の分はいまだ到着しておりませんが、既に売買の約定もできており、月々の約束の注文も続々ときております状況ですので、有阪も本気になり、大いに頑張って売り捌きに尽力しております。

(一八九九年四月一二日付 成瀬仁蔵宛て 広岡浅子書簡)
(提供:日本女子大学成瀬記念館)

明治三〇年代、日本のアルカリー製造技術はいまだ発展途上で、旧式のルブラン法という精製法を採用していたため、国内生産品の品質は競争力に乏しいものでした。一方、イギリスの大手化学会社ブラナー・モンド社(現在はオランダのアクゾノーベルの傘下)はソルベー法という精製法を採用、安価で高品質なアルカリーの製造に成功し、世界的にシェアを広げていきます。このブラナー・モンド社の日本代理店となったのが広岡商店で、その主任として実務を担ったのが有坂だったのです。

有坂はその後、広岡商店を退職してブラナー・モンド社が設立した貿易会社に移り、神戸を拠点とした同社日本支店の最高社員として、アルカリー事業に関わり続けていきます。その後、神戸市会議員も務め、日仏協会理事、日瑞(スウェーデン)協会理事なども歴任、神戸の名士として活躍しました。まさに浅子が見込んだ通り、有坂は「開明の商人」となったのでした。

浅子と働くのはくたびれる?

このように浅子は熱心に自分の考えを社員に伝え、そして自ら考えて行動するよう言い聞かせました。このような浅子の教育のもとで育った社員は、中川や有坂のように別のフィールドに身を移した後も、その業界で活躍する優秀な人材へと成長していったのです。

浅子は成瀬への手紙で、こう書き記しています。

私と一緒に毎日の事業をおこなう者は、随分くたびれます。

(一八九九年四月一二日付 成瀬仁蔵宛て 広岡浅子書簡)

浅子自身も加島屋や炭鉱の経営、女子大学校の設立と激しく動き回っていたこの時期、浅子とともに働く者は確かに「くたびれる」毎日だったことでしょう。しかしそれはきっと、厳しいながらも充実した日々だったに違いありません。

〈参考資料〉

日本女子大学成瀬記念館所蔵 広岡浅子関連資料目録(日本女子大学成瀬記念館 二〇一六(平成二八)年)

有坂弘 編『有坂忠平』(一九三八(昭和一三)年)