広岡浅子にまつわる五つのキーワード
広岡浅子は、九月二十八日から放送開始のNHK連続テレビ小説『あさが来た』の主人公のモデルです。女性実業家としての浅子について多くの書籍が出版されるなど、日増しに彼女への注目が高まっています。
そこで今回は広岡浅子について、五つのキーワードをご紹介しながら、その波瀾万丈の人生をまとめてみました。
加島屋
広岡浅子は、今から一六六年前の一八四九(嘉永二)年、出水三井家(後の小石川三井家)当主・高益の子どもとして京都に生まれ、一七歳(数え年)で大坂の豪商・加島屋の当主、広岡久右衛門の次男・信五郎に嫁ぎました。
加島屋は「天下の台所」と呼ばれていた大坂でも有数の商家でしたが、幕末から明治へと時代が激変する中で、経営の危機に陥ります。浅子はここ加島屋を舞台に、女性実業家として嫁ぎ先の立て直しに奔走するのです。
そして、浅子の努力により、加島屋は加島銀行、大同生命と近代的な金融グループへと発展していきました。
潤野炭鉱
浅子の女性実業家としての名声を高めたのが、一八八四(明治一七)年頃から加島屋の新事業として着手した炭鉱事業でした。当初は難航していたこの事業も、浅子の尽力により、ついには炭鉱の再開発に成功します。その炭鉱が、現在の福岡県飯塚市にあった潤野炭鉱でした。この時浅子は周囲の反対を押し切って再開発を進め、ピストルを携えて単身で炭鉱に入り現場を監督したと伝えられています。
なお、筑豊の石炭を海外へ輸出するため、当時はまだ漁村だった門司(福岡県北九州市)から最初に石炭を輸出したのも浅子でした。
九転十起
どんな困難にあっても決して諦めることのない、浅子の「座右の銘」ともいえる言葉です。後年、キリスト教への信仰を深めた浅子は、『基督教世界』という雑誌に連載を行います。その時のペンネームが「九転十起生」でした。この連載が浅子のものと知った彼女の知人が「その名といい論旨といい男だろうとばかり思い、あなたであろうとは少しも思いませんでした」と驚いたというエピソードも残っています。なお、浅子自身がこの「九転十起」という言葉を使った最も古い記録は、一九〇九(明治四二)年の『婦女新聞』に寄稿した文章です。
日本女子大学校
もともと浅子は幼少の頃から学問に強い興味を持っていましたが、実家の三井家では「商家の女に学問は不要」という慣習が強く、一切の学問を禁じられたという経験がありました。
一八九六(明治二九)年、女子高等教育機関の設立を目指していた教育者・成瀬仁蔵と出会った浅子は、成瀬の構想に大いに共感。設立運動を物心両面で強く援助します。その努力の甲斐あって、一九〇一(明治三四)年、日本女子大学校(現・日本女子大学)が設立されました。当時、浅子が成瀬とともに女子大学校の設立に奔走した様子は、『日本女子大学校創立事務所日誌』に詳細に記されています。
大同生命
加島屋が生命保険業に進出する際も、浅子がその中心にいました。一八九九(明治三二)年、名古屋に本社を置く真宗生命から事業援助の打診が来た際、その引き受けを決断したのです。その決断の理由を、後の新聞記事はこのように記しています。
「社会救済の理想を実現するために、保険業に着眼したるものならん。世の中には種々の事業あり、猫も杓子もあれども、真個に社会救済の意味を含み、人民をして生活上の安定を得さしむる事業は生命保険なること、恐らく誰人も否認せざるべし。」
この真宗生命は朝日生命(現在の朝日生命とは異なる)と改称、さらに一九〇二年(明治三五)年には護国生命・北海生命と三社合併を果たし、現在まで続く「大同生命」が誕生します。
その後、事業の一線から退いた浅子は、女子運動、キリスト教伝道活動などの社会活動に専念しました。そして、一九一九(大正八)年、七十一歳(数え年)で波瀾万丈の生涯に幕を閉じました。彼女は「私は遺言を残しません。日頃から言っていることが、全て私の遺言です」と語っていたと言われています。