豪商・天王寺屋を襲う時代の荒波
三井春、天王寺屋五兵衛に嫁ぐ
江戸後期になると両替商の商いは、曲がり角にさしかかっていました。とはいえ、十人両替を代々つとめる天王寺屋は、依然として大坂を代表する豪商の一つでした。そんな天王寺屋に嫁いだのが、広岡浅子の姉・春でした。
三井文庫に残る記録によると、春は一八四六(弘化三)年生まれで、浅子よりも三つ年上でした。そして、浅子と同じく、一八六五(慶応元)年に嫁ぎました。
三月二十六日……出水三郎助様・御春様・御照様(注・浅子の幼名)、右御三方様、今昼御同船にて御下坂遊ばされ候
とあるように、三月末に船で大坂に下り、四月三日に浅子の婚礼が、同月九日に春の婚礼が立て続けに行われています。
春の夫は、天王寺屋の当主を継ぎ、大眉五兵衛と名乗ります。
しかし、嫁いで間もない春と天王寺屋を待っていたのは、厳しい時代の荒波でした。
銀目廃止令と天王寺屋の窮地
一八六八(慶応四)年五月(同年九月に「明治」と改元)、戊辰戦争の最中、新政府はある政策を実行に移します。それは銀目廃止──つまり、「関東の金」と「上方の銀」という、東西で異なる流通貨幣を統一するものだったのです。
これにより、銀目取引の仲介機関であった大坂の両替商は大打撃を受け、ほとんどの両替商がたちまち休業状態に陥ってしまったのです。そして、それらのほとんどが、そのままのれんを下ろすことになったと言われています。
さらに、一八七一(明治四)年の廃藩置県と翌年の藩債処分によって、大坂商人が持っていた大名貸による多額の債権も、総額の半分以上が破棄されることとなりました。
銀目廃止はもちろん、藩債処分も天王寺屋にとって大きな痛手でした。しかし、五兵衛は諦めませんでした。
名門の意地を見せた五兵衛
一八七二(明治五)年、大阪財界の共同参画により、「第一綿商社」が設立されます。
頭取を鴻池善右衛門がつとめ、その下に一二人の発起人が名を連ねていますが、その中に天王寺屋こと大眉五兵衛の名もありました(『明治大正大阪市史』第三巻)。
第一綿商社は、その後も改組を繰り返しながら存続していきますが、設立から五年後、一八七七(明治一〇)年の経営陣の中に、大眉五兵衛の名前は見当たりません。
同社の設立から程なくして、「大坂で最も格式の高い両替商」と呼ばれた天王寺屋は、その歴史に幕を下ろしたのではないか……そう考えられていました。
しかし、上方で発行されていた長者番付を見ると、江戸以来の豪商たちが次々と消えてゆく中、「天王寺屋五兵衛」の名は、鴻池屋や加島屋と共に、明治一〇年頃でも確認することができます。
現在確認できる範囲で、長者番付の類で最後にその名が登場するのは、一八七九(明治一二)年三月の『大日本新持丸長者鑑』です。
少なくともこの頃までは、天王寺屋は上方において、豪商として認識されていたと考えられます。
天王寺屋五兵衛のその後
しかし、五兵衛は結局、天王寺屋を立て直すことはできませんでした。
今橋(大阪市中央区)の豪勢な邸宅も人手に渡りました。一八九四(明治二七)年、弁護士で、のちに茶人としても活躍する高谷宗範が、松方正義の後援を得て五兵衛の旧宅を買い取り、その一部を京都の宇治に移築します。
宗範が買い取る前は、新興財閥の藤田組が所有しており(松殿山荘茶道会編『高谷宗範伝』)、五兵衛はそれ以前に邸宅を売却したと考えられます。
また、五兵衛は没落後、菩提寺に預けてあった天王寺屋の古記録類を引き取り、関東に居を移したとされます(作道洋太郎氏の研究に拠る)。その後、天王寺屋の名前が歴史の表舞台に再び現れることはありませんでした。
大阪市中央区谷町にある、天王寺屋代々の菩提寺。この寺に、最後の天王寺屋五兵衛とその母、そして妻の春も静かに眠っています。