大同生命
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【第一章】加島屋かじまやのルーツと発展1/2

大同生命の源流は、大坂商人・加島屋にある。

加島屋は、鴻池こうのいけ屋と並び、江戸時代に経済の中心であった大坂を代表する大商人であり、我が国の経済史を語る上でも、外せない存在である。NHK朝の連続テレビ小説『あさが来た』のヒロインのモデルとなった広岡浅子。女性実業家・浅子の活躍は、彼女の嫁ぎ先でもある加島屋が舞台となっている。

このコーナーでは、加島屋の歴史をたどってゆく。第一章ではまず、加島屋当主・広岡家のルーツと、大坂を代表する商家に成長するまでを追っていこう。

知る人ぞ知る豪商?
加島屋久右衛門きゅうえもん

大坂の豪商・加島屋

江戸時代、大坂の豪商といえば、鴻池善右衛門ぜんえもん淀屋よどや辰五郎たつごろうを思い浮かべる人も多いだろう。しかし加島屋久右衛門も、大坂では鴻池とならび称される豪商であった。それが一般的には知られておらず、「知る人ぞ知る」存在になっていた。

浪華持丸長者控(大阪市立中央図書館蔵)

加島屋研究の現在

その加島屋があらためて脚光を浴びることとなったのは、二〇一一(平成二三)年一二月二七日から大阪大学に寄託きたくされた「大同生命文書」の研究プロジェクトである。その報告書である『「大同生命文書」解題』(二〇一三(平成二五)年)から、江戸時代の豪商である加島屋とその実態の一端が明らかになった。

加島屋久右衛門については、大阪企業家ミュージアム(大阪市中央区)内の「企業家デジタルアーカイブ」にある髙槻たかつき泰郎やすお・神戸大学経済経営研究所准教授監修の『加島屋久右衛門』に、加島屋についてもっとも体系的かつ最新の状況が記載されている。

また髙槻泰郎准教授の『近世米市場の形成と展開 幕府司法と堂島米会所の発展』(名古屋大学出版会 二○一二年)には、大同生命文書に原本がある資料「御用日記」を使った論考が所収されている。 また野高のだか宏之ひろゆき・奈良県立大学地域創造学部教授は、大同生命文書のリスト化に協力し、「加島屋久右衛門と黄金茶碗」(『大阪の歴史』第68号 二○○六年)や『会計官日誌』(『大阪市史史料』第67輯 二○○六年)などで、加島屋に関する論考や資料紹介を発表している。

大同生命では、大阪本社(大阪市西区)のメモリアルホールにて『大同生命の源流』と称して、資料の一部を展示し時代背景を解説する展示会を開設している。それらを元にして、加島屋のルーツと大坂を代表する豪商に成長するまでを追っていこう。

初代より、実に三九〇年

現在の大同生命のルーツは、江戸時代(一六〇三〜一八六七)の大坂の豪商・加島屋である。当主は代々「久右衛門」を名乗り、江戸時代には八人の当主が代をつないだ。

歴代当主の名前・生没年は次の通りである。

初代=広岡久右衛門正教まさのり(冨政)
一六〇三(慶長八)年〜一六八〇(延宝八)年

二代=広岡久右衛門正保まさやす(正吉)
一六四九(慶安二)年〜一七〇三(元禄一六)年

三代=広岡久右衛門正道まさみち(正中)
一六八七(貞享四)年〜一七二〇(享保五)年

四代=広岡久右衛門正喜まさのぶ(吉信)
一六八九(元禄二)年〜一七六五(明和二)年

五代=広岡久右衛門正房まさふさ
一七四二(寛保二)年〜一七八三(天明三)年

六代=広岡久右衛門正誠まさよし
一七七四(安永三)年〜一八三三(天保四)年

七代=広岡久右衛門正愼まさちか
一七九一(寛政三)年〜一八四〇(天保一一)年

八代=広岡久右衛門正饒まさあつ
一八〇六(文化三)年〜一八六九(明治二)年

『広岡家の由来』(草稿)、『「大同生命文書」解題』(二〇一三年)ルビは引用者による

初代・正教による加島屋創業は、江戸時代初期の一六二五(寛永二)年と伝えられている。

これが正しければ、大同生命のルーツは実に三九〇年前にまでさかのぼることになる。

広岡家のルーツは赤松あかまつ円心えんしん
織田信長も仕官を求めた?

この加島屋広岡家は、いったいどのようなルーツを持っているのだろうか?

その遠祖は、赤松則村のりむら(法名「円心」)である、という人もいる。足利あしかが尊氏たかうじ挙兵きょへいに参加し、室町時代初期に播磨はりま(現在の兵庫県南西部)の守護大名となった武将である。

その赤松家の一門にあたる「御一家」九家中に、広岡氏の名がある。この広岡氏は、円心の孫に当たる則弘のりひろが初代とされる。加島屋広岡家は、ここに連なるのだという。

一方、広岡家の家伝では、戦国期に楠木くすのき正成まさしげの子孫・正嗣まさつぐが入り婿となり、当主の通字とおりじ(名に必ず含める文字)を、「則」から「正」に改めたという。そして、この正嗣の孫・正厚まさあつのとき、広岡家は摂津国せっつのくに川辺郡かわべぐん難波なんば村(現在の兵庫県尼崎市あまがさきし東難波ひがしなにわ)に移住した。戦国時代(一四六七〜一六〇三)のことである。

さて、戦国時代もたけなわの一五七八(天正六)年、謀反むほんを起こした荒木あらき村重むらしげ討伐とうばつするため、織田信長が摂津に出陣する。

信長は、当地の広岡正厚が赤松円心の子孫であり、楠木流兵法に通じていることを知るや、家臣に迎えたいと考え、礼儀を尽くして仕官を要請した。

しかし、血なまぐさい争いに巻き込まれることを嫌う正厚は謝絶しゃぜつし、信長も無理強いはせず、破顔一笑はがんいっしょうして了解したという。

またこの時、正厚は「広岡家は仁徳にんとく天皇の代より、梅の木を守る家系である」とも言ったという。赤松家の一族、という伝承と一見矛盾するようなエピソードである。

以上、いずれも興味深い話であるが、事実関係は定かではない。