【第一章】加島屋のルーツと発展〈2/2〉
加島屋の創業
加島屋の初代となる久右衛門正教は、一六二五(寛永二)年に大坂・御堂前に移り住んだとされている。まさに、幕府によって大坂が急速に復興していく時期にあたる。
最初に正教が手掛けたのは、精米業だったといわれている。当時の諸藩はコメの産出量である石高で領地を決められ、武士の俸給もコメで支払われていた。まさにコメは経済の基本であった。
二代・正保と三代・正道について、詳しい経歴はわかっていない。しかしこの時期に御堂前から玉水町(現在の大同生命大阪本社ビル一帯)に店舗を移していることから、順調に家業が拡大していたことがうかがえる。
この間、大坂では大きな事件が起きている。隆盛を極めた豪商・淀屋の没落(一七〇五(宝永二)年)である。そして、米会所が北浜から堂島に移る。大坂最大の商人の没落と米会所の移動。大坂経済の大きな変化の中で、新たな商人が台頭する。
四代・正喜の登場
初代・正教、養子の二代・正保は、ともに当時としては長命であった。しかし、三代目の正道は、どうやらあまり体が丈夫でなかったらしい。
これに応じて広岡本家(初代・正教の出た家)では、二七歳ですでに同家を継いでいた次郎三郎を加島屋に養子に出した。
正道はこのとき二九歳。まるで兄と弟のような父子の誕生であった。
一七二〇(享保五)年、正道が三四歳の若さで病没すると、次郎三郎が新当主となった。加島屋中興の祖となる四代目・正喜である。
天下の豪商に成長した加島屋
四代・正喜の時代、加島屋は一躍歴史の表舞台に登場する。
堂島米会所設立の翌年(一七三一(享保一六)年)、正喜は同会所の「米年寄(後に米方年行司に改名)」に任命された。
これは会所の総責任者ともいうべき役職であり、市場の秩序の維持、仲買人や彼らの株札の管理などにあたった。また、大坂町奉行所との折衝役も兼ねており、奉行所からの通達を会所内に伝える一方、米会所を代表して各種の届け出や訴えを奉行所に申し出た。
正喜は重責をこなす一方、商いにも精力的に取り組んだ。諸藩からの委託による米切手の発行や代金の回収といった通常業務に加え、「入替両替」というビジネスも行なった。これは会所での米切手売買を許可された米仲買株を持つ米仲買商人たちに、米切手を担保として現金を貸し出す取引をいう。この資金供給ビジネスによる収益こそ、加島屋急成長の原動力となった。
加島屋は正喜が、世界最先端の商業の中心地で主要な役割を担ったことにより、天下の豪商となったのである。
それ以降、加島屋は大坂経済の中心的なプレーヤーとして、明治維新まで存在感を放ち続けることになる。
世界初の先物取引市場・堂島米会所
一七三〇(享保一五)年、大坂の米商人による堂島米会所の設立が許された。
「会所」とは、現代風にいえば事務所である。堂島米会所は、この会所に加え、寄場(市場)と消合場(精算所)から構成されていた。
同会所では、「正米取引」と「帳合米取引」の両方が行われた。
正米取引は諸藩の蔵屋敷が発行し、今日の有価証券に相当する米切手を、米仲買の間で取引するものをいう。
もう一方の帳合米取引とは、帳簿上の取引をいう。特定の藩のコメを指定した先物取引を行い、一年のうち三回、帳簿上の決算をするのである。この先物取引については、「投機」だけでなく「ヘッジ」の役割も果たしたという説もある。
ともあれ、当時こうした取引をシステマティックに行なっている市場は、世界のどこにもなかった。堂島米会所はまさに「世界初の先物取引市場」であり、世界最先端の商いの中心地であった。正喜は、このような最先端の市場の責任者だったのである。
取引は毎日午前八時から午後の二時まで。終了時刻が近づくと、三センチほどの火縄が点火され、燃え尽きるのと同時にその日の取引を終えた。しかし、取引が白熱して容易に終わらないケースが多く、会所の役員が水をまいて退去を求めたという。
米相場が米価と諸物価を左右したため、取引の結果は直ちに各地に伝えられた。