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【第三章】加島屋と長州藩・新撰組1/2

加島屋は、八代当主・久右衛門正饒まさあつの代に、激動の幕末を迎える。多くの大坂商人が時代の波に翻弄されるなか、正饒は幕府と長州藩との間で丁々発止のやりとりを重ねることで、その波を乗り越え明治維新を迎える。

今も大同生命に残る「新撰組借用書」と、長州藩から加島屋に下賜かしされた「黄金茶碗」(寧楽ねいらく美術館蔵)の二つに象徴される、加島屋の「幕末ドラマ」とは?

本章で紹介する加島屋と長州藩との関わりは、主に野高宏之「加島屋久右衛門と黄金茶碗」(『大阪の歴史』六八号 大阪市史編纂所 二〇〇六年)および同論文にて翻刻されている「大同生命文書」各史料に基づく。

加島屋と長州藩

西国の大藩・長州藩との取引

加島屋の収入の柱は諸藩への「大名貸し」であり、現在までの研究で、全国の約三分の一にのぼる大名が、何らかの形で加島屋と取引を行っていたことが判明している。

その中でも最有力の藩であった、周防すおう長門ながとの二カ国を領する長州(萩)藩毛利家との取引の始まりは、加島屋四代当主・正喜まさのぶの代にまで遡る。

また、その関係は五代・正房まさふさの代に深まり、一七七〇(明和七)年、加島屋は長州藩の大坂蔵屋敷留守居格に任じられる。これは蔵屋敷における町人側の代表であり、藩の現金出納を管轄し、大名貸しの際の商人の分担を取りまとめた。金額によっては単独で引き受けることもあったという。つまり、現代でいうメインバンクと同じ役割である。西国の大藩である長州藩は、加島屋にとっても大口の顧客であった。

加島屋と長州藩の親密な関係をしのばせる遺構いこうが山口県萩市に現存している。長州藩でも最有力の御用商人であった、熊谷五右衛門くまやごえもんの屋敷(現・熊谷美術館)に残る、石灯籠いしどうろうである。

一七六四(明和元)年、五代・正房が初めて長州藩を訪問した際、藩命により初代・熊谷五右衛門が接待役を務め、自身の屋敷を滞在先として用意したと言われている。この石灯籠は、その返礼として正房が贈ったものとされている。(福尾猛市郎『熊谷五右衛門』 一九八四年 マツノ書店)

ここからも、長州藩が加島屋をいかに大切に扱っていたかがよくわかる。

熊谷美術館に残る、石灯籠(「山口県史だより」二九号(二〇一二年)より)

火の車の長州藩財政

江戸時代の中期以降、長州藩は恒常的な財政難にあった。そのため、長州藩は三度にわたる藩政改革を行っている。

その一回目にあたる「宝暦の改革」では、「撫育方ぶいくかた」という部局を創設し、藩政改革を主導させた。長州藩はこの部局のもと、耕地開拓や塩田の大規模開発、海運事業などに乗り出すことになる。ちなみに加島屋はこの「撫育方」に多額の資金援助をすることで長州藩との関係を深くし、大坂蔵屋敷留守居格の地位を手に入れている。

ところが、それ以降も長州藩の財政は火の車であり、さすがの加島屋も度重なる借財に怒りをあらわにしたこともあった。

一八二九(文政一二)年、七代・正愼まさちかの時、メインバンクの地位である大坂留守居格の辞退を申し出たのである。長州藩は慌てて慰留するが、その一方で懲りずにまた借財を重ねる。加島屋もその依頼に対し、他の商家と連名で「この類いの借銀は今回限り」と最後通牒を突き付ける。

しばらく続いた加島屋と長州藩の良好な関係も、風前の灯のように思われた。

八代当主・久右衛門正饒まさあつの登場

八代・正饒は、七代・正愼まさちかの実子ではなく五代・正房の弟、加島屋次郎三郎家の孫にあたる。加島屋にとっては四代ぶりの入婿であった。

正饒については

「容貌魁偉、大人の風格を持ち、公事に忠実、下衆に温情のある人物であった」

(大同生命文書「第八代正饒様 第九代正秋様 履歴大要」)

と伝わっている。

この正饒の代になると、加島屋は打って変わって長州藩への融資に応じる姿勢を前面に押し出すようになる。

一八五四(嘉永七)年に長州藩に差し入れた請書うけしょの中で、正饒はこう述べている。

「諸藩への融資がかさみ経営は楽ではないが、御家様(毛利家)には先祖より高恩を受けており、できるだけのことは致します」

このように正饒の判断で再び活発となった長州藩への融資は、禁門の変(後述)で大坂商人との連絡が途絶える一八六四(元治元)年まで、銀一万千九百貫(現在の価値でおよそ八六億円)にのぼった。

ペリー来航と朝敵・長州藩

一八五三(嘉永六)年、ペリーが黒船四隻から成る艦隊を率い、浦賀(現・神奈川県横須賀市)に姿を見せる(黒船来航)。いよいよ、幕末の動乱への突入である。

ペリー来航後、政局の中心は次第に江戸から京に移っていった。朝廷の権威のもとに臣民が一体となり、「外国勢力を追い払うベし」とする尊王攘夷運動が激化したからだ。この運動は、幕府の外交姿勢を「弱腰」と批判していたこともあり、反幕府的な性格を帯びていた。

京でこの運動をリードしたのが長州藩であった。同藩は朝廷内で考えを同じくする公家と結びつき、著しく発言権を強めていた。

ところが、一八六三(文久三)年八月一八日、薩摩・会津の両藩と急進的な尊王攘夷論を警戒する公家の一派が、クーデターを敢行。長州藩と攘夷派の公家たちを京から追い出してしまう。歴史にその名を残す「八月十八日の政変」である。

翌一八六四(元治元)年七月、「禁門の変(蛤御門はまぐりごもんの変)」が起こる。長州藩が藩主父子の処分撤回と朝廷改革を求めて、京に兵を集めたところ、御所を守る薩摩・会津・桑名藩と蛤御門付近で衝突したのである。この際の類焼で三万戸が焼亡する惨事となった。

戦いに敗れた長州藩は朝敵とされ、同月、幕府による長州征伐が行われる。折しも長州藩はアメリカ・フランス・イギリス・オランダで構成される四ヵ国艦隊からの攻撃を受けたばかりで、とても交戦する余力はなく、幕府に降伏する。こうして「第一次長州征伐」は終了した。

長州藩をめぐる一連の動きは、当然ながら、同藩と関係の深い大坂商人たちにも波及することになった。

まず、長州藩の大坂蔵屋敷が取り壊しとなる。この蔵屋敷を抵当としていた加島屋にも大きな痛手となったことは言うまでもない。さらに「禁門の変」の直後から取り調べが始まり、加島屋をはじめとした銀主たちは、自主的に謹慎せざるを得なくなる。

さらに同一二月、正饒には、京より取り調べのための呼び出しがかかる。取り調べに当たったのは、「禁門の変」で長州軍と戦火を交えた会津藩御預の治安維持部隊で、京はおろか大坂市中でも「泣く子も黙る」と恐れられた、あの新撰組であった。

正饒率いる加島屋は、窮地に立たされたのである。