広岡浅子を理解するための一〇人(家族編)

広岡浅子はNHK朝の連続テレビ小説『あさが来た』のヒロインのモデルとなった人物です。浅子の周囲にどのような人々がいたのかを知っておくことで、彼女についての理解がより深まることでしょう。

そんなわけで、浅子の身近な人物たちにスポットを当てる特集の第一回目。今回は「浅子の家族」をご紹介します。

一:広岡信五郎しんごろう

一八四一(天保一二)年
 〜一九〇四(明治三七)年

浅子の夫で、最大の理解者。大坂の豪商・八代目加島屋かじまや久右衛門きゅうえもん正饒まさあつの次男として生まれ、隣接する分家・加島屋五兵衛ごへえ家の当主となります。この加島屋五兵衛家は、代々小石川こいしかわ三井家から妻をめとっており(「重縁」といいます)、そのしきたり通りに小石川三井家から一人の女性が嫁いできます。それが浅子でした。

二人の結婚は互いが物心もつかないうちに決められていたとはいえ、二人の仲は非常によかったそうで、浅子が学問をする時には信五郎もともに学び、浅子のことをからかい半分で「先生」と呼ぶ事もあったそうです。

明治維新後は弟で加島屋本家の当主である正秋まさあき、そして妻・浅子とともに加島屋の立て直しにあたり、大阪株式取引所(現・大阪取引所)肝煎きもいり(現在の取締役)、日本綿花(現・双日そうじつ)創立発起人、尼崎紡績あまがさきぼうせき(現・ユニチカ)社長など数々の要職を務めました。性格は実に温和で、うたいを好んだということです。

なお、事業や女子教育に奔走ほんそうする浅子を、広岡家の奥向きを取り仕切ることで陰ながら支えたのは、三井家から浅子にお供してやってきた腰元のむめ(通称・小藤)でした。

二:広岡久右衛門正秋

一八四四(弘化こうか元)年
 〜一九〇九(明治四二)年

浅子が立て直しに奔走した加島屋の当主。大坂の豪商・八代目加島屋久右衛門正饒まさあつの三男として生まれますが、長兄が夭逝ようせい、次兄・信五郎は既に分家の当主となっていたため、若くして加島屋の九代目当主となりました。

二六歳の若さで当主となった正秋は、兄・信五郎、義姉・浅子の協力を得ながら立て直しに奔走し、一八八八(明治二一)年に加島銀行を設立、初代頭取に就任します。その他にも第一回大阪市議会議員、堂島米穀どうじまべいこく取引所理事長など大阪政財界の要人として活躍しました。一九〇二(明治三五)年、社長を務めていた朝日生命(現在の朝日生命とは異なる)が護国・北海の両生保と合併し大同生命が誕生すると、その初代社長に就任します。

浅子と正秋の直接的な関係をうかがわせる記録は残っていませんが、日本女子大学校(現・日本女子大学)設立時には正秋も寄付金や発起人として尽力しており、一人娘の郁子いくこを同校に入学させるなど、浅子とは良好な関係を築いていたと思われます。

三:広岡久右衛門正饒まさあつ

一八〇六(文化三)年
 〜一八六九(明治二)年

浅子が嫁いだ加島屋の八代目当主で、信五郎、正秋の父。一八六七(慶応三)年の大政奉還直前、長らくメインバンクを務めていた長州藩を訪問します。しかし、当時の長州藩はまだ、禁門きんもんの変により朝敵(天皇とその朝廷に敵対する勢力)とされていました。幕府に感づかれてはいけない、秘密の訪問だったのです。正饒は財政の要人と会談し、以降の長州藩の財政を取りまとめる活躍をします。その貢献に対して長州藩からは黄金の茶碗が下賜かしされ、それは今も寧楽ねいらく美術館(奈良市水門町)に所蔵されています。

また、大同生命に所蔵されている、新撰組の土方歳三が書いた借用書の宛先に書かれている「加島屋久右衛門殿」は、この正饒のことです。

正饒は、幕府側と長州藩の双方と駆け引きを繰り広げ、激動の幕末を巧みに乗り切ったすぐれた商人でした。しかし、維新直後の一八六九(明治二)年に死去。残された信五郎、正秋、そして浅子が加島屋の立て直しに奔走することになります。

四:三井高喜たかよし

一八二三(文政六)年
 〜一八九四(明治二七)年

小石川三井家七代目当主。浅子の義兄で、父親代わりでもあった人物です。浅子の実父・高益たかますは、浅子が生まれた時には既に隠居して、当主の座を養子である高喜に譲っていました。そのため高喜が二九歳の時に、二歳の浅子を義妹として入家(三井家の一門として認め、三井家で育てる)させ、それから一五年間、浅子は油小路出水の三井家屋敷で生活します。

高喜は、一八七六(明治九)年の三井銀行創設時には重役、のちに総長となるなど、長く三井家を支える中心人物として活躍しました。

五:三井高景たかかげ三郎助さぶろうすけ

一八五〇(嘉永三)年
 〜一九一二(明治四五)年

小石川三井家八代目当主で、浅子とは一歳違いの「愛弟」。三井高喜の長男として京都に生まれます。「三郎助」というのは、小石川三井家の当主が代々襲名した名前です。

浅子との戸籍上の関係は「叔母と甥」ですが、実際の年齢は一歳しか違わなかったため、姉弟同然に過ごしました。浅子も三郎助のことを「愛弟」と呼んで生涯良好な関係を保ち、また妻には信五郎と浅子の養女・寿天子すてこを娶りました。

明治維新後すぐに他の三井家子弟とともにアメリカに留学し、帰国後三井組に入社。一八九二(明治二五)年、三井鉱山社長に就任するなど、三井財閥の中心人物の一人として活躍しました。

実業家としての浅子に対する協力だけでなく、日本女子大学校(現・日本女子大学)設立の際にも、妻・寿天子とともに、浅子のよき理解者、協力者となりました。

六:春

一八四六(弘化三)年
 〜一八七二(明治五)年

浅子の異母姉。出水家当主・三井高益の庶子(婚外子)として生まれ、後に三井家に入家します。一八六五(慶応元)年、浅子とともに大坂に下り、大坂の名門両替商である天王寺屋五兵衛家に嫁ぎました。天王寺屋の屋敷があったのは、船場の今橋二丁目付近。浅子が住んだ江戸堀の加島屋新宅からは徒歩で一五分ほどの距離でした。

大坂を代表する老舗両替商の天王寺屋でしたが、明治維新後の銀目廃止令や廃藩置県で破綻、間もなく廃業したと言われています。春も失意のなか一八七二(明治五)年に死去、二七歳の若さでした。

七:広岡亀子かめこ

一八七六(明治九)年
 〜一九七三(昭和四八)年

信五郎と浅子の一人娘。亀子を産んだ明治九年はちょうど加島屋の立て直しに奔走していた頃であり、また亀子が産まれた時は相当の難産だったため、浅子はそれ以降子どもを作ることを諦め、経営者としての活動に専念しました。それだけに一人娘の亀子のことは気にかけており、浅子が成瀬仁蔵に送った書簡にも、たびたび亀子を気にかける内容が記されています。

亀子は京都府高等女学校(現・府立鴨沂おうき高等学校)卒業後、一柳ひとつやなぎ子爵家の次男・一柳恵三と結婚し、一男四女に恵まれました。

八:広岡恵三

一八七六(明治九)年
 〜一九五三(昭和二八)年

浅子の娘・亀子の夫で、信五郎と浅子の事業継承者。一柳ひとつやなぎ子爵家の次男として東京にて生まれた恵三は、東京帝国大学在学中に亀子との縁談がまとまり、一九〇一(明治三四)年に亀子と結婚、広岡家の婿養子となりました。

その後、養父・信五郎の死去をうけて加島銀行に入社し、浅子の事業を継承します。久右衛門正秋死後の一九〇九(明治四二)年には加島銀行頭取、そして大同生命第二代社長に就任して辣腕を振るい、長くトップの座に君臨し続けました。

九:一柳ひとつやなぎ満喜子まきこ

一八八四(明治一七)年
 〜一九六九(昭和四四)年

一柳子爵家の令嬢で、恵三の妹。神戸女学院時代は広岡家で生活し、浅子と家族同然に暮らしたといわれています。その後アメリカに留学、帰国後、兄・恵三の婿入先である広岡家でヴォーリズと出会い、結婚。外国人であるヴォーリズと華族令嬢である満喜子の結婚には反対の声が多かったものの、浅子の強い後押しがあったといいます。

ヴォーリズと結婚後は、近江八幡おうみはちまんに清友園幼稚園(現・ヴォーリズ学園)を設立し、生涯教育事業に尽力しました。彼女が、浅子の娘・亀子の三人の娘の世話を行なったことが、本幼稚園の設立につながったと言われています。

なお、満喜子は玉岡かおる著『負けんとき ヴォーリズ満喜子の種まく日々』の主人公でもあります。

一〇:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

一八八〇(明治一三)年
 〜一九六四(昭和三九)年

アメリカ生まれの建築家、実業家として日本に大きな足跡を残した人物。建築家としては大同生命・旧肥後橋本社ビル(大阪市西区)、大丸心斎橋店(大阪市中央区)、山の上ホテル(東京都千代田区)、明治学院礼拝堂(東京都港区)など一五〇〇棟余りの西洋建築を手掛け、今なお多くの人に愛されています。

また、実業家としてヴォーリズ合名会社(現・近江兄弟社)を設立し、メンソレータム(現在の商品名はメンターム)の日本販売権を得るなど、「青い目の近江商人」と称される活躍をみせました。

建築家としての活動には広岡家の大きな支援があり、大同生命の本・支社一一棟の設計を手掛けました。また、広岡家私邸の設計・内装を担当するなど、浅子とは強いつながりがありました。

なお、ヴォーリズは、第二次世界大戦の終戦直後、昭和天皇とマッカーサー元帥の会見のために尽力したと言われています。