豪商・天王寺屋

時代の荒波に翻弄された天王寺屋

広岡浅子の三歳年上の姉・春は、浅子と同年に、大坂の両替商・天王寺屋五兵衛家(大眉おおまゆ家)に嫁ぎました。この春は、連続テレビ小説「あさが来た」(NHK)に登場する〝はつ〟のモデルとなった人物です。

春が嫁いだ天王寺屋は、大坂有数の両替商として世に知られた存在でした。しかし、江戸時代の後期には、両替商を取り巻く状況は既に厳しいものとなっており、明治新政府の経済政策がそれに追い打ちをかけます。結果、両替商のほとんどは廃業を余儀なくされたと言われています。

本コラムでは、時代の波に翻弄された天王寺屋について紹介します。

天王寺屋とは?

天五てんご」こと、天王寺屋五兵衛の由来については、これまで様々な説がありました。

聖徳太子が四天王寺を創建する際に材木を扱った、初代当主の眉が太かったことから太子が「大眉おおまゆ」と呼びそれを姓とした、大坂夏の陣で豊臣方についた武将・ばん団右衛門だんえもんの子孫である……など。

現在では、鴻池文書の「大眉おおまゆ家系記」より、摂津住吉郡遠里小野おりおの村出身の大眉吉右衛門秀綱が、一六一五(元和元)年に大坂の今橋(現・大阪市中央区)に移り住み、天王寺屋の屋号を名乗ったとする記述が事実に近いと考えられています。この秀綱の子・光重が、初代の天王寺屋五兵衛にあたります。

日本唐土二千年袖鑑にっぽんもろこしにせんねんそでかがみ』によると、初代・五兵衛は一六二八(寛永五)年に両替商を開業しました。初期の商いは、変動相場制で取引される金・銀・銭の両替だったと考えられています(手数料が利益となる)。両替商はその後、為替・預金・貸付や、信用取引を仲介するようになっていきますが、信用取引の際に用いる「手形」も、大坂では天王寺屋が創始したとされています。

大坂両替商のトップ

天王寺屋を語るときに「十人両替の筆頭」という言葉も欠かせません。

一六七〇(寛文一〇)年、大坂町奉行所は「十人両替」という制度を創設します。これは、大坂の両替商を統轄するための機関で、常に十人の席が埋まっていたわけではありませんが、江戸末期まで存続しました。天王寺屋五兵衛はこの十人両替が制定されたときの「筆頭」に位置づけられ、幕末までほぼ一貫してその地位にありました。このように、古い歴史と独創性を兼ね備え、かつ大坂両替商の代表的な立場であった天王寺屋は、自他ともに認める「大坂で最も格式の高い両替商」だったのです。

また、天王寺屋の屋敷も広大で豪勢なものでした。屋敷は今橋(大阪市中央区)にあり、同じく有力両替商の平野屋五兵衛の屋敷と近接していました。その通りは「二人の五兵衛」の豪邸が並ぶことから「十兵衛横町」とも呼ばれており、「天五に平五 十兵衛横町」と刻まれた石碑が、今も残っています。

「天五に平五 十兵衛横町」(大阪市中央区今橋一丁目五・開平小学校前)

その天王寺屋旧宅の一部が、今も残されています。京都府宇治市の松殿山荘しょうでんさんそう。近代の茶人・高谷たかや宗範そうはんが天王寺屋の旧宅を買い取ったことから、後に高谷自身が興した山荘流茶道を伝えるこの松殿山荘に、玄関や大広間など多くが移築されているのです。豪壮な門や広大な大広間からは、かつての天王寺屋の威勢をしのぶことができます。

天王寺屋の玄関を移築したと伝わる松殿山荘の「大玄関」
天王寺屋の大広間を移築したと伝わる松殿山荘の「天五樓」

幕末の天王寺屋と春の輿入れ

ただし、天王寺屋の商売も、順風満帆の状態が続いたわけではありませんでした。

江戸時代も後期に入った一七六一(宝暦一一)年に、幕府が有力商人に課した御用金の一覧を見ると、鴻池・三井・加島屋などは五万両を課されたのに対し、天王寺屋や泉屋(住友)は五千両となっています。

これは当時の商いや資産の規模を反映していると思われ、鴻池・三井・加島屋などと比べると、やはり規模の面で天王寺屋は下回っていたと考えられるのです。

一八六五(慶応元)年四月、天王寺屋五兵衛家に一人の女性が輿入れ(嫁入り)します。その名は春、出水三井家(後の小石川三井家)当主・高益の子で、広岡浅子の異母姉にあたる女性です。

天王寺屋が「大坂で最も格式の高い両替商」なら、三井家は京・大坂・江戸など全国に店を構える当時「日本最大の商家」。日本を代表する豪商同士、互いの結びつきを強くする狙いがありました。この婚姻は、同じく大坂の豪商・加島屋に嫁入りした浅子とともに、本来であれば明るい未来が約束されたもののはずでした。

しかし、二人の人生は、くっきりと明暗を分けました。

明治維新まであと三年。激動の時代が、すぐそこまで迫っていました……。