ヴォーリズ夫妻と浅子

日本の近代建築に大きな足跡を残したウィリアム・メレル・ヴォーリズ。そして、華族の令嬢として初めて外国人と結婚し、その後の生涯を教育に捧げた妻・満喜子。この二人の結婚には、浅子の大きな力添えがありました。

ここでは、ヴォーリズ夫妻と浅子との知られざる関係をご紹介します。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(一八八〇〜一九六四)

米国カンザス州に生まれたヴォーリズは、一九〇五(明治三八)年に滋賀県立商業学校(現・滋賀県立八幡はちまん商業高等学校)の英語教師として来日、一九〇八(明治四一)年からは「ヴォーリズ建築事務所」を設立のうえ建築設計の事業を開始し、学校・教会・病院・商業建築など、第二次世界大戦までに全国で一千を超える建築に関与したとされています。

その優美なデザインは、今なお多くの人々に愛されており、代表的な建築物には、大丸心斎橋店(大阪市中央区)、山の上ホテル(東京都千代田区)、明治学院礼拝堂(東京都港区)などがあります。

また、ヴォーリズは旧肥後橋本社ビル(大阪市西区)をはじめ、大同生命の本・支社十一棟の建築を手掛けました。

大同生命肥後橋ビル(一九二五〜一九九〇)

一柳満喜子ひとつなやぎまきこ(一八八四〜一九六九)

一柳子爵家の三女として生まれた満喜子は、大同生命第二代社長・広岡恵三の妹にあたります。満喜子は十九歳から大阪の広岡家で、恵三と亀子との間に生まれた娘たちの世話をしながら、浅子とも家族同然に暮らしました。

神戸女学院を卒業後、日本女子大学校(現・日本女子大学)で助手として勤務していた満喜子は、一九〇九(明治四二)年に渡米留学。当地で八年間を過ごし、一九一八(大正七)年に帰国しました。この時も広岡家で、浅子とともに過ごしていました。

二人の出会いと浅子

ヴォーリズと満喜子、後に夫婦となるこの二人は、満喜子が米国から帰国後、兄・恵三の婿入先である広岡家でヴォーリズと出会ったことがきっかけです。当時ヴォーリズは、恵三が所有する複数の邸宅を建てるために招かれており、その打合せの席で、通訳として恵三に同行していた満喜子と出会ったのでした。

(芹野与幸「ヴォーリズ夫妻と広岡浅子―三人を結ぶ点と線―」(『湖畔の声』二〇一六(平成二八)年二月号近江兄弟社))

出会ってすぐに運命を感じたという二人でしたが、外国人であるヴォーリズと華族令嬢である満喜子の結婚には、当然ながら周囲から反対の声が多く挙がりました。

そんな二人に手を差し伸べたのが、他ならぬ浅子だったのです。

近頃物故した女傑広岡浅子刀自とじ養嗣子ようしし)恵三氏は満喜子嬢の令兄)はいたく氏(ヴォーリズ)の人物に感服していたということである。

(中略)

いわゆる橋渡しには故浅子刀自もあずかって力があったのだそうだ

(「一柳子爵の令嬢が米人技師と結婚」一九一九(大正八)年一月二八日朝日新聞)
ヴォーリズと満喜子の結婚を報じた新聞記事(一九一九(大正八)年一月二八日朝日新聞、複写)

ヴォーリズと満喜子の結婚を強く後押しした浅子ですが、ほどなくして、一九一九(大正八)年一月一四日にこの世を去ります。二人は同年六月、ヴォーリズが設計した明治学院のチャペル(現存)で盛大な結婚式を挙げます。また二人の結婚披露宴は、浅子が亡くなった、東京・麻布の広岡家別邸で開かれました。これもまた、ヴォーリズが設計したものでした。

この盛大な結婚式は「過去に例がない華族と外国人との結婚に対して、(望まれぬ結婚などと)余計なうわさを封じるために東京で例がないほどの立派な結婚式にしよう」という広岡家と一柳家の希望だったといいます。

(平松隆円「一柳満喜子の生涯に関する一考察」(『日本研究』第三七号 国際日本研究センター 二〇〇八(平成二〇)年))

浅子が亡くなった後、ヴォーリズと満喜子の結婚披露宴の会場となった、麻布の広岡家別邸(一九一六年)

また、ヴォーリズは建築家としてのみならず、事業家としても活躍。一九二〇(大正九)年、近江セールズ(現・株式会社近江兄弟社)を設立し、メンソレータム(現在の商品名はメンターム)の販売を開始するなど、キリスト教の教えに基づいた事業活動を行いました。

母国の米国と日本が戦争に突入した一九四一(昭和一六)年、ヴォーリズは日本に帰化します。日本名は「一柳米来留ひとつやなぎめれる」。「米国から来て留まる」、これがヴォーリズの決意でした。

戦時中のヴォーリズと満喜子

また、ヴォーリズが手掛けた多くの事業のうち、来日当初から着手していた教育事業については、満喜子が中心となって大きな発展を遂げました。一九二二(大正一一)年、近江八幡おうみはちまんの所有地を開放したプレイグラウンドを元に清友園幼稚園(現・学校法人ヴォーリズ学園)を設立すると、自ら園長となって子どもたちとふれあいました。彼女が浅子の娘・亀子の三人の娘の世話を行なった経験が、この幼稚園の設立につながったと言われています。

こうして海を越え、それぞれの立場を超えて、出会った二人は仲睦まじく、近江の地で生涯を過ごしたのでした。

浅子への感謝のしるし

浅子の死から四年が経った一九二三(大正一二)年。恵三と亀子は浅子の自伝「七十になる迄」(『一週一信』所収、一九一八(大正八)年)を英訳した冊子“The Autobiography of ASA-KO HIROOKA”を制作し、外国人の知人や関係者に配りました。この英文は、実は満喜子が翻訳したものでした。さらにこの巻末には、浅子を追悼した“IN MEMORIAM”と題した一篇の詩が寄せられています。作者は「W.M.V.」、つまりウィリアム・メレル・ヴォーリズ、その人です。

浅子自伝英訳本の巻末、ヴォーリズの追悼の詩(複写)

「追悼」(芹野与幸訳)


土に返りし 亡骸なきがら

そばに はべりて われは今

その命が とこしえの

主のみ手にあるべしと


汝の命は この世での

その体を離れゆき

永遠とわの世界に移された。


汝がこの世に在りしとき

語りし言葉、こころざし

今もわれらの心に響き、

吹きゆく風のごと 消えゆかず


ああ 亡骸をみた 今でさえ

汝は我のかたわらに

身近に居ますを われ感ず


父なる神よ われらをば

ともに 恵みを分かち合う

いこいのみぎわに 導きたまえ


W.M.V.


広岡夫人は一九一九年一月一四日に逝去した


(『浅子と旅する。』いのちのことば社 フォレストブックス 二◯一五(平成二七)年九月)

広岡浅子という女性がいたこと、そして彼女の偉大な功績を一人でも多くの人々に知ってほしい――それが、浅子によって拓かれた道を歩んだ恵三と亀子、そしてヴォーリズと満喜子が抱いた、浅子への感謝の気持ちだったのです。

〈参考資料〉

平松隆円 監訳『メレル・ヴォーリズと一柳満喜子』(水曜社 二〇一〇(平成二二)年)

『浅子と旅する。』(いのちのことば社 フォレストブックス 二◯一五(平成二七)年)