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教養人としての広岡浅子

お転婆だったが、しかし……

皆さんは、広岡浅子というと、どんなイメージをお持ちでしょうか?

少女時代はお転婆で、大人になってからは男性顔負けの豪腕女性経営者──広く浸透しつつある浅子のこういったイメージは、すべて本人や周囲の人が語ったエピソードが元になっています。

その頃の女子の教育は、琴と三味線と習字くらいのものでした。そして少し年をとると裁縫を専らにするのですが、私はずいぶんお転婆でした。否、よほどお転婆でしたから、そういう稽古はみな嫌いでした。

「余と本校との関係を述べて生徒諸子に告ぐ」(『日本女子大学校 学報』第一号、一九〇三年)

このほか、以前ご紹介したとおり、浅子が相撲や木登りが好きだったことについても、記録が残されています。

しかし、先ほどの引用を読み返してみると、浅子は「そういう稽古はみな嫌いでした」と言っているだけで、決して「苦手」とは言っていません。後に日本女子大学校の二代校長となった麻生正蔵は、浅子のことをこのように評しています。

刀自とじは生来聡明でありましたから、手習い、裁縫、琴、三味線、茶の湯、生け花、礼儀作法、踊り等の女に相応しき手芸遊芸のどの方面の稽古にもよく熟達せられたのであります。

刀自:年輩の女性に対する敬称

「広岡刀自を憶ひて」(『家庭週報』五〇四号、一九一九年)

裁縫は苦手だった?

浅子の多才ぶりを表すものに、彼女が単身乗り込んだ潤野うるの炭鉱でのエピソードがあります。

浅子は元来寸陰をも空過するのが大の嫌いであるから、事務所の一隅に機織場を設け、余暇あれば直に来たりてチャンチャン織りはじめ、何か気づきし事があるとか、もしくは必要の生じたる場合は、機より下りて事務所に出向き、採決流れるごとく処理したものである。浅子がいまなお機織の巧者であって、その道のものすらアッとたまげるのも、この時の稽古の結果と聞いている。

「本邦実業界の女傑(二)(広岡浅子)」(『実業之日本』第七巻二号、 一九〇四年一月一五日号)

残念ながら浅子の縫い物や織物は残されていませんが、周りがあっと驚くほどの出来ということですから、かなりの腕前だったことは間違いありません。

そう、本人は決して好きではなかったかも知れませんが、浅子はお嬢様としての教養や素養もしっかりと身につけていたのです。

浅子の文字と和歌

そんな浅子の教養が最もよくわかるもの。それは彼女の書です。

浅子直筆の書簡は、日本女子大学成瀬記念館に二十点所蔵されていますが、ここでは、そのうちの一点をご紹介します。

明治二九年成瀬仁蔵宛広岡浅子書簡の抜粋(日本女子大学蔵)

この書簡は、浅子が炭鉱の監督のために筑豊へ出かけていた時に、彼女が女子大学校設立の協力をしていた成瀬仁蔵に送ったものです。書かれている内容も興味深いのですが、まずは筆跡をご覧ください。いきいきとして、流れるような文字です。少なくともこれを見て「浅子は字が下手」という印象を持つ方は少ないのではないでしょうか。

また、浅子直筆の書として、彼女が詠んだ和歌も残っています。

海邉うみべのかすみ」と題するこの一首をご紹介しましょう。

「広岡浅子和歌短冊」(提供:三井文庫)

海邉霞

貝拾ふ あまの少女か 袖かけて

かすみわたれる 春の夕なき

浅子

「貝を拾う海女の少女が、(濡れないように)衣の袖をかけている。(海辺は)一面に霞がかかった、春の夕凪(無風)である」といった内容です。こちらは、丁寧で女性らしい筆跡で書かれています。

このほか、後に『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子に浅子が送ったポートレートにも「とも祈祷きとう」という題の和歌が添えられています。

自分の気持ちを和歌に込め、短冊にしたためる。浅子にはそのような教養がしっかりと備わっていたことがわかります。

このように、浅子は「お転婆」や「豪腕」といった言葉だけでは語れない、きわめて多才な人物だったと言えるでしょう。