浅子が作ったもうひとつの学校、草鳥寮
成瀬仁蔵の女子教育論に賛同し、日本女子大学校の設立に深く関わった浅子。その浅子が同校以外にも、教育に情熱を注いでいたというエピソードをご紹介します。それは女性だけではなく、加島銀行に勤める全ての従業員を対象としたものでした。
草鳥寮
恐らくは、浅子が最初に作った「学校」です。学校といってもいわゆる社内研修機関、つまり加島銀行の社員を教育した場です。浅子は加島銀行の若い従業員が寝泊まりする社員寮を教育の場にしようと考え、私費を投じて書籍や講師を手配しました。それがこの草鳥寮(そうちょうりょう/くさとりりょう)です。
草鳥寮とは、(加島屋の)蔦の定紋から思いついた名で、いわば倶楽部と教場とを合わせたような組織であって、常に講師を雇い加島屋一家の子弟は言うまでもなく、加島銀行・加島商業部の番頭小僧を集めて知徳を磨かせている。元文部省の官吏で現在加島銀行の重役を務めている中川小十郎氏がその寮長であって、夜学をも開き、書籍をも備え置いて、これらの費用はみな(浅子)夫人の手許より出しているのである。
この草鳥寮の支寮は、銀行と商業部の各支店に置かれており、夫人は年に一、二度くらいこの支寮を巡回するが、この折には店員一同を集めて一場の教話を始めるので、番頭小僧はゾロゾロとその前に出て、これを謹聴するが常例である。
※以下、引用表現を一部現代語に改めています。
浅子の手紙で語られた草鳥寮
この倶楽部兼教場である「草鳥寮」について、実は大同生命の所蔵する文書資料や新聞などの記録からは、その実態が確認できていませんでした。しかし二〇一五(平成二七)年に日本女子大学により公開された成瀬仁蔵宛の書簡の中で、浅子が自身の近況を伝える中でこのように書き記していることがわかりました。
午後四時あるいは五時に帰宅し、夜になると教場へ折々出掛けております。頑張らない者は厳重に大目玉を食わせ、忠実な者は褒めたたえ、賞与を与えます。
浅子が夜になると出かける教場、これが草鳥寮のことと考えられています。
草鳥寮の卒業者
現在、この草鳥寮出身の人物が一人だけ明らかになっています。その人の名は大川光三(一八九九〜一九六五)。尋常小学校卒業後、家庭の事情で中学校に進学できなかった大川は、その後一九歳の時に加島銀行に入社します。在勤中に関西大学の夜学に通いながら法律の勉強をした大川は、二五歳で弁護士試験に合格し、その後加島銀行を退職して弁護士事務所を立ち上げたという「努力の人」です。また後に政治家として大阪府会議員に当選すると、衆議院議員、参議院議員を合計四期一四年務め、参院法務委員長などを歴任しました。
この大川光三が加島銀行在籍時、梅田にあった寮に住んでいたことを自伝に記しています。さらに大川の幼馴染で終生の友人であったジャーナリスト・大宅壮一は、「大川君と会う為に草鳥寮へ行った」(「中学生日記2」『大宅壮一全集三〇』一九八二年 蒼洋社)と記しています。このことから、大川光三が住んでいた加島銀行の社員寮が、まさに浅子が作った「草鳥寮」であったと考えられるのです。
浅子の「教育」とは
このように浅子は、女子だけではなく未来ある若者全てに対して教育の必要性を強く感じ、そのような場を実現すべく行動しました。浅子にとって教育とは、どのような境遇や環境にあっても受けるべきもの。また学生でなくとも学び続けるべきと考えていたようです。そのことがよくわかる浅子の言葉を最後にご紹介します。
絶えず自ら教育するということは、努めなければどんなに閑な豊かな境遇でもできないもので、十分の覚悟を以て努めさえすれば、またどういう境遇にあっても出来るものです。このようにまず始終自らを教育しつつ職業に従うなら、ままごとではなく本気におやりなさい。
常に謙遜な真実の心をもって自分を省み、修養を怠らない人であったならば、その人のする仕事は小さくても大きく役立ちもし、またその周囲に何らかの感化を及ぼすでありましょう。
そして大きな仕事であればなお、小さい隅々まで行き届いて、しっかりとした土台から積まれ、充実した内容をもって力ある大いなる貢献を致すのでありましょう。