【第一章】若き日の浅子と激動の幕末・明治維新(一八四九〜一八六八)〈1/2〉
大同生命の創業者の一人であり、ドラマ『あさが来た』のヒロインのモデルとなった広岡浅子は、幕末の京都、出水三井家に生まれ、幼少期を過ごす。
そして浅子は、十七歳で大坂の豪商・加島屋に嫁ぐ。世はまさに激動の幕末・維新期。お転婆な少女時代を過ごした彼女は、時代の激しい波の中で、苦境に真っ向から立ち向かっていくのであった。
三井家に生まれ、加島屋に嫁ぐ
幕末、京都の三井家に生まれる
広岡浅子は、一八四九(嘉永二)年、豪商・三井家の一つ、出水三井家(後の小石川三井家)の六代目当主・高益の四女として生まれた。
そして、浅子は二歳のとき、七代目当主・高喜の義妹として出水三井家に入る。
大坂の豪商・加島屋との婚約
当時二歳の浅子には、すでに将来の結婚が決まっていた。
相手は「天下の台所」と呼ばれた大坂の豪商・加島屋、その当主である第八代広岡久右衛門正饒の次男・広岡信五郎である。
当時、信五郎はまだ十歳だったが、すでに加島屋久右衛門家の有力な分家である加島屋五兵衛家の養子となり、次期当主になることが決まっていた。
この結婚は「重縁」といい、五兵衛家には二代続けて出水三井家から嫁いでいる。家同士の繋がりを強くするために行われた、商家の慣習の一つである。その例に従う形で、浅子にも信五郎との婚約が調えられたのだ。
そして浅子は、将来豪商に嫁ぐ女性として、朝から晩まで、三味線・琴・習字・裁縫といった商家の女性に必要な教養を身につけさせられる。彼女はまぎれもない「お嬢様」だったのである。
お転婆な少女時代
物心もつかないうちに敷かれた「お嬢様」としてのレール。しかし、浅子にとって、決して居心地のよいものではなかった。彼女は幼少期を振り返り、次のように記している。
その頃の女子の教育は、琴と三味線と習字くらいのものでした。そして少し年をとると裁縫を専らにするのですが、私はずいぶんお転婆でした。否、よほどお転婆でしたから、そういう稽古はみな嫌いでした。
浅子がもっぱら好んだのは、丁稚との相撲や木登りなど、体を動かすこと。
その頃の彼女の人となりを示す、とっておきのエピソードがある。
十二三の時、髪をこわすのでよくお母さんから叱られた。小さいアサ子さんはどうしたらお母さんの小言を逃れることができるかと熟熟考えた末、よいことを思いついた。髪があればこそお母さんの小言も出るわけと、夜ひそかに結いたての髪をぶっつりと根本から切って、枕元においたまま、ぐっすりと寝てしまった。あくる朝それを乳母が見つけて大騒ぎになった。けれども浅子は一向平気でニコニコしている。仕方がないので、その日から付髷をしたが、お転婆をするので、今度は髪がこわれるどころか、ころころと落ちた。
学問への興味
浅子は、男兄弟がやっていた「学問」に強い興味を示し、彼らが音読する「四書(大学・中庸・論語・孟子)」を襖の陰で聞き興味を持つ。こっそり書物を引っ張り出しては、意味もわからないまま声に出して読んでいたという。
しかし、「女子に学問は不要」とされた時代。これには家人も大反対。浅子は「男子のすることを真似てはいけません」と叱られ、ついに十三歳の時に、両親から読書を禁じられてしまう。後年、浅子は当時を振り返ってこう語っている。
なぜに女は男のすることをしてはいけないのか。男女は能力や度胸においては格別の違いはありません。いいえ、女子は男子に比べてさほど劣らないと思いました。
年頃になった浅子は、もう「お嬢様」というレールの上を歩むことなど考えていなかった。
商家の慣習とは何か、女がすべきこととは何か。浅子の胸に燻っていた強い不満は、彼女の後の人生を大きく動かす原動力となる。
加島屋に嫁ぐ
一八六五(慶応元)年、十七歳になった浅子は、かねてからの約束どおり、加島屋の当主、第八代広岡久右衛門正饒の次男である広岡信五郎のもとに嫁いだ。
加島屋は「天下の台所」と言われる大坂で、多くの諸藩の御用を務めた豪商。その商いには、大きく三つあった。一つは、堂島米会所で米の売買を行う米仲買への事業資金の融資(いわゆる「入替両替」)。次に、御用を務める諸藩の蔵屋敷の管理人(いわゆる「蔵元」「掛屋」)。そして、最も大きな商いである諸藩への融資(いわゆる「大名貸し」)である。
なお、浅子が嫁いだ時、信五郎はすでに加島屋の分家(五兵衛家)の跡継ぎ(養子)となっていた。ただし、分家といっても、本家(久右衛門家)とともに加島屋の商いを支える大きな柱であり、当時の長者番付に掲載されるほどの大きな商家であった。