【第三章】日本女子大学校の設立と女子教育〈3/3〉
日本女子大学校の設立
設立運動の停滞
浅子と成瀬仁蔵が出会った一八九六(明治二九)年から一年も経たないうちに、政財界の有力者数百名を集めて創立披露会を開く、という驚くべきスピードで開学までの準備を進めた日本女子大学校であったが、それ以降の計画は苦難の連続だった。その大きな理由は、経済の低迷にあった。
一八九五(明治二八)年の日清講和条約により、日清戦争に勝利した日本は国家歳入予算の三・三倍もの賠償金を獲得、日本経済は鉄道や銀行、紡績を中心に大きな発展を遂げ、一八九七(明治三〇)年一〇月には金本位制に移行して資本主義の基礎を築くに至った。しかし相次ぐ企業の勃興と物価の高騰による民間資金需要の増大は金利の高騰をもたらし、一八九七年下期ごろから景気は急激に反動、翌年に「明治三一年恐慌」と呼ばれる経済不況を引き起こす不景気となった。特に打撃を受けたのが大阪で、中小企業の倒産や銀行の支払い停止が相次いだという。
(参照:『日本銀行百年史 第二巻』(参照:日本銀行百年史編纂委員会編、一九八二年))
苦境に立たされる設立運動と浅子
このような状況では、当初は寄付を約束していた賛同者も、多くは寄付金を出すことができず、計画の第二段階であった寄付金募集になかなか着手できない状態となった。『日本女子大学校創立事務所日誌』にも、寄付金の募集に踏み切れない状況をこのように記している。
○明治三〇年一〇月三日
此度日本女子大学校資本金募集之儀経済界不振の為暫時相見合せ居り次第……
またもう一つ設立運動の妨げとなる事象があった。それは設立計画そのものに対するネガティヴな反応であった。成瀬の日本女子大学校設立計画は、浅子を始めとした多くの人の助けにより、政財界の重鎮が名を連ねた大規模な発起人組織を立ち上げるに至った。その成果は新聞でも盛んに取り上げられたため、結果として、内容よりもむしろその派手で大掛かりな側面ばかりが注目され、特に教育者や学者の中から、やっかみにも似た中傷や批判が多く寄せられた。(参照:『日本女子大学校四拾年史』)
さらには女子大学校設立に協力的だった政界の有力者たちも、一八九八(明治三一)年という年は第二次松方内閣、第三次伊藤内閣、第一次大隈内閣、第二次山県内閣と、一年で四人が総理大臣を務めるという目まぐるしさで政局は混乱し、多くの政治家は政党の結成や遊説で多忙を極め、女子大学校設立は二の次となってしまっていた。
このように寄付金募集に着手できず、女子大学校設立運動への批判も強く、さらには後ろ盾となる政界の協力も望めない。成瀬はこの頃の苦境を、書簡でこう述べている。
時勢の悪しきため追々遷延し困難を増し、天下に対し広岡に対し土倉に対し発起人に対し学生に対し友人に対し万人に対し気の毒千万……小生の責任のみ重し
(出典:「明治三〇年一一月四日付書簡」『日本女子大学校四拾年史』)
この一八九七(明治三〇)年から翌年にかけての不況は、大阪の銀行や綿産業に大きな打撃を与えたため、当然のことながら浅子の事業にも深刻な影響を与えていた。一八九八(明治三一)年五月二一日に成瀬に宛てた書簡には、不況下で苦心している浅子の近況と、大阪の寄付金が集まらない状況について憤慨する心境が綴られている。
ご承知の通り、痩せ馬に荷の過ぎたる事業をしておりますため、他を顧みる時間がなく不本意でございますが、かねてお断り申し上げておいたように、運動に身を捧げる訳には至らず、どうぞ悪しからずお許し下さい。
(中略)
寄付金募集の件、大阪人は徳義がないため万策尽きたと考えますが……
(中略)
今日の実業家の多くは、自己の利益のために徳義を失った人ばかりです。
加島屋の事業改革と成瀬の協力
苦境に直面した浅子は、女子大学校設立運動が停滞する中、加島屋の事業改革に専念する。
そのプロセスで浅子が重視したのが「人材の登用」だった。改革には何よりもまず人材が必要と考えた浅子は、旧来の商家の採用方法である奉公人制度を改め、新たに商業学校の卒業者や外部の優秀な人材を招聘し、彼らによる新事業で事態の打開を目指したのだった。
この一連の改革に、浅子は意外な人物の手を借りる。それは各界に影響力を持つ政治家でもなければ、事業再建に実績を持つ財界の大物でもなく、女子大学校の設立に苦心していた一教育者・成瀬仁蔵その人だった。一八九八(明治三一)年八月に、加島屋当主・久右衛門正秋と信五郎の連名で、成瀬に加島屋事業の顧問を依頼する書簡が残っている。(所蔵:日本女子大学)
大企業が顧問として招聘する人材は、例えば三井家では井上馨といった政界の後ろ立て、または鴻池では司法省在職時から五代友厚ら財界人との人脈を築いていた土居通夫(後の大阪電灯(現在の関西電力)社長、大阪商業会議所会頭)の事例のように、財界に通じた実力者であることが常だった。その点からは、ビジネスの経験がない一介の教師だった成瀬に事業顧問を委嘱するのは、極めて異例のことといえる。
しかし成瀬には他の政財界人にはない米国への渡航経験と、現在進行形で進んでいた大学校設立運動の中で、官僚や学者にも多くの知己がいるというアドバンテージがあった。その特徴を活かして海外の情報収集や、成瀬が見込んだ優秀な人材を加島屋に招聘することに絞れば、成瀬は加島屋の事業改革に適任であると浅子は考えたのだろう。実際に、成瀬に欧米の情勢や商況について情報収集を依頼する内容の書簡が残されている。(明治三一年一二月一三日付 成瀬仁蔵宛広岡浅子書簡 所蔵:日本女子大学)
また設立運動中、集まった資金には一切手をつけず清貧な生活を送っている成瀬の人柄を見込み、設立運動が停滞しているこの時に彼の経済的な境遇を少しでもよくしたいという気持ちがあったのかもしれない。
このように、女子大学校のみならず加島屋の事業でも、浅子と成瀬はよき協力者として困難に立ち向かっていくのであった。
中川小十郎
浅子が成瀬に紹介を依頼したのは、加島屋を支える幹部社員となる人材だった。その要望を受けて成瀬が白羽の矢を立てた人物が、文部省の官吏だった中川小十郎である。
中川は京都の出身で、西園寺公望の秘書として文部省に奉職。女子大学校設立運動でも、創立委員会の事務幹事長となるなど、文部省内での強い協力者であった。その中川が、一八九八(明治三一)年に西園寺が文部大臣を辞職したのを機に、成瀬の紹介で加島屋への入社を打診され、鳴り物入りで入社することとなる。浅子は成瀬への書簡の中で、中川が示した加島屋の改革案についてこう記している。
廣岡家の今後の方針は、中川の考えとは大差はないようです。中川が方針として述べましたのは左の通り。
・三年から五年間は利益が少なくとも業容の拡大を図って信用を得る事に専念注力すること
・商業部を来年一月に必ず設置すること
・追々は政界とも連絡を通じるようにすること
この方針は同様ですが、我々の取るべきは平民主義であり、彼は幾分かは役人風を帯びていますので多少の相違はどうしてもございます。このことについては追々直接会話をすることで、次第に我々と同じ考えになっていくのではないかと考えています。
浅子と中川が一致したのは、利益ではなく信用を得るための業容拡大路線と、商業部門、つまり新規事業部門の設立だった。一方で「政界とも連絡を通じる」という言葉に代表される中川の「役人風を帯びた」考えに対して、浅子は「平民主義」という言葉を使っている。「平民主義」とは、「権威主義」「貴族主義」に対抗した考えで、徳富蘇峰が「平民的欧化主義」(政府主導ではなく大衆主導で近代化を進めるべきという考え)と主張したことでも知られる。ここで浅子が使う「平民主義」とは、言い換えれば「財閥のように政府との関係を密にして大規模な国家事業に関与するのではなく、大衆の利益にかなう、大衆のための商売を行う」ということだろうか。
新規事業と人材の登用
さらに浅子は、この方針に則り、さらなる人材の紹介を成瀬に依頼する。今度は中川と異なり、より若い年齢の有望な人材を多く登用した。成瀬の紹介により入社した人材について、そして成瀬からもたらされた新規事業についても、浅子は成瀬への書簡で近況を詳細に報告している。
当方各事業もいまだみるべき結果はございませんが、少しずつ改良を加え進取の方針に向かいつつあります。
商業学校生を今度は四人雇入れましたが、いずれも成績宜しく、追々実地に馴染めば大いに利益をもたらしてくれると思います。
先生がお世話くださった人員は、いずれもみな今日までのところ、よい結果をあげております。
くだんの横濱縮緬輸出の件も御申し越し下さりありがとうございます。もっともこれらは組み入れる方法によっては将来的な望みがあるかもしれないと存じます。
(中略)
アルカリー(注:工業塩を用いて生産されるソーダ灰・苛性ソーダなどのアルカリ製品)は、全く先生のご尽力により、将来かなりの有望な商売になりました。
現在の事業の取り方進歩の度は随分と変化したと感じていただけると存じます。中川(小十郎)も帰ってきた時に驚いておりましたのは、皆が激しく努力し、整理ができてきたと申しておりました。
ともあれ、浅子が日本女子大学校設立に協力することで始まった二人の関係は、今度は成瀬が浅子の事業に協力することで、加島屋は不況を乗り越え、事業改革を成功させるに至った。
残るは、日本女子大学校設立の実現であった。一八九九(明治三二)年五月、日本経済の不況も改善の兆しが見えたため、改めて基金への寄付を開始、その後の成瀬は、寄付への協力を呼びかけるために東京、そして大阪の有力者のもとを奔走することになる。
女子大学校の設置場所問題
この過程で問題になったのが、学校の設置場所だった。既に前年に大阪・清水谷に土地を取得したものの、その後の経済恐慌により設立予定地であった大阪財界の寄付はなかなか集まらず、逆に運動が再び活発化してからは、東京での活動による成果が中心となっていた。そのため自然に、「学校は大阪よりも東京に設置すべきでは」という考えが大きくなっていった。
当然のことながら、設立協力者の大半は、当初の計画通り大阪に設置するものとして、東京設置案には大きな反対があった。当地取得の引受証人にもなり大阪を拠点としている浅子も、当然大阪設置論に同意していたかと思いきや、この問題における浅子の態度については、『日本女子大学校四拾年史』に興味深い記述が記されている。
「京阪方面の援助者の中には、当初は地方的見地から援けていられるものもあったので、東京説には相当強い反対があった。広岡浅子夫人を除く大阪方面の援助者は、初めはことごとく東京反対であったといってもよかった。」
意見を変えることの出来ない性格
浅子が女子大学校の設置場所について、大阪と東京のいずれがよいか具体的に述べた記録は残っていない。ただはっきりと言えることは、浅子が設置場所に拘わらず、全力で成瀬の計画を支援するという決意を持ち続けていたことだった。成瀬への書簡には、この浅子の一貫した態度が随所に表れている。
私(浅子)の意見は昨年からたびたび申し上げておりますが、今日でも少しも変わっておりません、このこともご理解ください
私の存念は既に貴方様へお伝えしております。今日に至って何の異存もありません。ただ他人にはその考えを伝えておらぬだけです。
(中略)
私の何があっても意見を変えることの出来ない性格は、よくご承知の事かと存じます。
書簡で「私の意見はすべてあなた(成瀬)に伝えている」と繰り返している浅子。この言葉の裏には「成瀬の行動と判断を、自分は信じている」という気持ちが込められている。
浅子はこの言葉を学校設置場所の問題においても、実際に行動で示している。一九〇〇(明治三三)年六月、東京・目白台の土地約五千五百坪が、ある家より女子大学校に寄付される。目白台の広大な土地を寄付したのは、三井惣領家当主・三井八郎右衛門高棟を名義人とした三井十一家。三井銀行(現・三井住友銀行)所有の土地を日本女子大学校が購入し、後日その土地購入資金に相当した額を寄付するという形をとった。(注釈:平成二九年一一月、日本女子大学(大同生命寄付講座)における、鈴木邦夫・埼玉大学名誉教授の講演内容より)浅子が働きかけたという直接の記録は残されていないが、浅子と三井家の関係の深さからも、三井家の日本女子大学校への協力の働きかけ自体、浅子からなされたものであると充分に考えられる。
学校の設置場所を東京にするか大阪にするかに関係なく、成瀬の目指す「女子高等教育の場」を実現することに、浅子は全力で協力したのである。またこのような浅子の信じる姿勢があったからこそ、成瀬は周囲の異論を抑えて東京設置に踏み切ることができたのではないだろうか。
最終的には大阪の財界もみな東京での開校に賛成し、大阪だけで五万円(現在の価値で約二億千六百万円)の募集金を集め、一気に開校に向かって弾みをつけた。これを口火に東京に拠点を置く財閥の岩崎、渋沢、古河の諸氏からは追加の寄付があり、ついに寄付金は十万円(現在の価値で約四億三千二百万円)を突破。ここで初めて、まずは思い切って開校に踏み切り、実際の学校を運営しながら今後の発展につなげていくという方策に固まり、翌一九〇一(明治三四)年の春に開校することが正式に決まったのである。
開校
一九〇一(明治三四)年四月二〇日、東京・目白台。日本初の女子高等教育機関、日本女子大学校が開校する。五十三名の教職員と五百十名の生徒をもって、同校はスタートを切ることとなった。
開校に尽力した創立委員三十二名の中には、夫の広岡信五郎「愛弟」の三井三郎助の名前があり、浅子自身は発起人五十八名の一人として義弟・広岡久右衛門正秋とともに名前を連ねた。寄付金を拠出した賛助員は延べ七百余名に及ぶ。
女子大学校の設立を目指した成瀬が浅子と出会って五年。そして浅子が十三歳の時「女子に学問は不要」と読書を禁止されてから、およそ半世紀が経過しようとしていた。
浅子が学生達に託した言葉
開校後も、浅子は東京に出る用があれば足しげく大学校に通って成瀬の講義を聴講し、時には学生を前に講話をしている。その中で、浅子が第一期入学生に対し述べた言葉が残っている。この講話で浅子は、女子大学校の学生に向けて自身の想いを伝えている。
今一年で第一回卒業生の出る時が参ります。これについて世の中の人はいかに立派な女子が出るかと大きな望みを持って待っておりますから、皆さんが卒業後、社会にお立ちなさるについては、大きな忍耐と注意とをもってこの学校の目的を達せなければなりません。もしも皆さんが失敗をなさったならば、皆さん一人に止まらず、学校全体の失敗となり、学校全体の失敗は、日本女子教育の失敗となり、日本女子教育の失敗は、国家の進歩発達に大いに関係を及ぼします。言葉を換えて言えば、我国の興るか否かは、皆さんの双肩に担う所の運命であります。実にあなた方の責任は重大です。
このように、強い調子で学生達にプレッシャーを与える浅子。しかし浅子の本意は、続けて述べる言葉にあった。
このように申しますと、皆さんはどうすればよいかとお考えになるでしょう、あるいは大事業を興すか、また何か華々しき事をして、我こそは女子大学校の卒業生であることを示さなくてはいけないと、お考えになるかもしれません。しかし、私は決してそういう意味で責任の重さをいうのではありません。
(中略)
皆さんは学校を出てから妻となり、あるいは教育家となり、あるいはまた何かの事業に従事される事もあるでしょう。あるいはまた下女となることもあるでしょうが、それでよろしい。
即ち私の望む所は、皆さんがその境遇に従い、高きも、卑しきも、尊きも、賎しきも、満足して予め養成した犠牲的精神をもって自己を捨て、忠実に事をなさることであります。言葉を換えて言えば、皆さんは色々の方面に別れ別れとなって、その責任を全うすれば、それで社会のため、国家のため、また女性のために尽くす事が出来るのであります。
(一部表記をわかりやすく意訳)
学んだことや得たことをもって、自分のためではなく他者や社会のために忠実に尽くすこと。その行為自体が社会の発展に繋がるというのが、浅子が学生に対して伝えたかった姿勢であった。そしてその姿勢は、浅子が成瀬仁蔵という青年を見込んで尽力した、女子大学校設立の行動原理そのものでもあったと言える。
〈参考資料〉(文中引用の資料は省く)
・『日本女子大学成瀬記念館所蔵 広岡浅子関連資料目録』(二〇一六年)