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【第一章】若き日の浅子と激動の幕末・明治維新(一八四九〜一八六八)2/2

加島屋の危機と女性実業家・広岡浅子の誕生

加島屋はのんびりしていた?

一八六五(慶応元)年、十七歳で広岡信五郎の妻となった浅子。

ただし、彼女が目にした加島屋の姿は、実家の三井家とは異なるものであった。

「業務は番頭ばんとう手代てだい任せで主人はのんびりしたもの。永久に家業が繁盛するか疑わしい。何か起きれば、自分が何とかしなければ」

広岡浅子「七十になる迄」(『一週一信』、一九一八年)ルビは引用者による

自分が何とかしなければ――浅子が持ったこの危機感は、一体どこから生まれたものだろうか。一つには、彼女が幼少期を過ごした京都での経験が影響していると考えられる。

浅子が過ごした京都・油小路あぶらのこうじ出水でみずの三井家から、東に一〇分ほど歩けば京都御所の西壁にたどり着く。その最寄りにある蛤御門はまぐりごもんで発生したのが、一八六四(元治げんじ元)年の「禁門きんもんの変」である。

ここで御所に押し入ろうとする長州藩と、門を守る薩摩さつま会津あいづ・桑名連合軍との間で激しい戦闘が起き、類焼るいしょうで二万戸以上の町屋が焼失したと言われている。浅子十六歳の秋であった。

そのような事件を目の当りにした浅子。時代が変われば、どんな大店おおだなでも油断はできない――彼女はそう考えていたのであろう。

学問の再開と夫の理解

やると決めたら、すぐに行動を起こす浅子。加島屋の行く末に危機感を持った彼女は、「女がするものではない」と実家で固く禁じられていた学問を再開した。

刀自(浅子)は大いに悟る所があり、(中略)主人と共に修養につとめ、立派な人間となるように心がける事が妻たるものの道であり、責任でもあると確信して、主人にも学問修養を勧め、自分とともに隣家の儒者なにがしに就き漢学儒学を勉強せられたのである。

麻生正蔵「広岡刀自を憶ひて」(『家庭週報』五〇四号、一九一九年)

夫・信五郎は、おっとりして上品、うたいが大好きな典型的な大店の御曹司おんぞうし。しかし彼には、浅子のやりたいことを受け入れるだけの包容力があった。後に、信五郎と浅子の関係がよくわかるエピソードが紹介されている。

良人の信五郎氏

夫の信五郎氏は、どんな方だろうというに、これは至極温和な性質で、浅子とは全く反対の人物。しかし家庭は和気洋々として一糸乱れずである。が、加島屋の興廃得喪こうはいとくそうに関わることは、すべて浅子の裁断を待たざるべからざる仕組みなので、従って浅子の勢力は飛ぶ鳥も落ちる次第、しかるに浅子はかつて夫に対して他の指一つ指すあたはざる程に慎重なれども、もし意見の投合せざることもあれば、ごう退譲たいじょうせずたまには大気焔だいきえんを吹きかけるので、信五郎氏はそんな場合に至ると「いや、どうしまして、先生先生」と揶揄からかい半分にじっと黙ってしまうのである。

「本邦実業界の女傑――広岡浅子(四)」(『実業之日本』第七巻四号、一九〇四年)

信五郎は、生涯を通じて浅子に理解を示した。彼女は、生まれて初めて自分のやりたいことを認め、行動をともにしてくれるパートナーに出会ったのである。

また、浅子が学んだのは漢籍だけではない。独学で九九算から始め、算盤の稽古、簿記、そして最後には屋敷の帳面や書類をひもとき、毎夜家族の就寝後、睡眠時間を削ってまで勉強に励んだ。彼女は「実学」を習得していったのである。

それは、何かあった時には自分が家業を担う――その決意を実行に移すためであった。

明治維新と商家への影響

浅子が懸念した加島屋の危機。それは、結婚からわずか三年後に現実のものとなる。当時「ご一新」と言われた明治維新である。

明治新政府は、さっそく加島屋をはじめとする大坂商人にも御用金の献金を命じる。その額はしめて三〇〇万両にも上った。さらに、銀目廃止令により、当時大坂で流通していた銀が使われなくなると懸念した民衆や商家による取付騒ぎが起こった。浅子の姉・春が嫁いだ大坂の豪商・天王寺屋もこれが原因で廃業に追い込まれたと言われている。

しかし加島屋は、維新の勝者である長州藩のメインバンクを江戸時代から務めており、新政府の成立と同時に、金穀出納掛きんこくすいとうがかりという官職にも就くことができたため、何とかこの混乱を乗り越えた。

また銀目廃止令も、大坂の両替商には大打撃だったが、加島屋の商いは大名貸しや入替両替といった、今でいう企業向けの融資が主体であり、銀行窓口業務にあたるような本両替の取扱は限定的であった。そのため、取付騒ぎによる直接的な被害も大きくはなかった。

加島屋の危機と女性実業家・広岡浅子の誕生

加島屋にとっての本当の危機は、一八六九(明治二)年に訪れる。

まずは、当主・第八代広岡久右衛門正饒まさあつの死去である。正饒は維新の激動を乗り切り、隠密裏に自ら長州に乗り込み、長州藩との取引継続を決断した「傑物けつぶつ」であった。

正饒には三人の息子がいたが、長男は若くして亡くなっており、また次男である信五郎はすでに分家である五兵衛ごへえ家の養子となっていた。そのため加島屋の当主は、数え二十六歳の若き三男・正秋まさあきが継ぐことになる。

そして、加島屋にとって最大の危機がおきる。一八七一(明治四)年の廃藩置県はいはんちけんである。

加島屋の商いの柱は、諸藩への融資であった。全国で三百程度あった大名のおよそ三分の一に融資を行なっていたと言われる。

それが廃藩置県によって天保てんぽう年間より前の債権は全て「なかったもの」となり、残った債権も無利息の長期債に変わり果てた。

これにより、加島屋は主たる収入が途絶えるばかりか、残る手元資金だけで明治政府や各県からの融資要望に対応せざるを得なくなったのである。

まさに加島屋にとっては、お先真っ暗な状況。しかし、浅子は、時代の流れに翻弄され我が身を悲観するような女性ではなかった。

「危急の時はと自分がしてきたのは、まさにこの時のためと、一族のため重大なる家政の責任を一身に担い、奮然起って事業界に身を投じました。」

広岡浅子「七十になる迄」(『一週一信』、一九一八年)

「考えておったばかりではいけない。自分が起って、この大変化を来したる家政を整頓せねばならない。(中略)自分が起ってこの家の財政を救うために如何にそしられても、主人始め一家の者が乞食となって人からいやしめられるよりは、よほど勝れる仕方である」

「信者になりし経験」(『婦人新報』一九二号、一九一三年)

今こそが私の出番――そう思った彼女は、自分を認め受け入れてくれた加島屋のため、夫・信五郎、そして若き当主・正秋とともに、加島屋の経営への参画を決意する。

まだ二十をいくばくか過ぎたばかりの若き女性実業家・広岡浅子の誕生である。

若い頃の浅子の写真