【第二章】実業家・広岡浅子の奮闘〈1/3〉
嫁ぎ先である加島屋の経営に参画し、立て直しに尽力した広岡浅子。その道のりは決して平坦なものではなかった。浅子を待ち構えていたのはさまざまな苦難や失敗、しかし彼女は決して諦めることはなかった。
加島屋における浅子の奮闘
加島屋の経営体制
明治維新とそれに続く廃藩置県によって、加島屋は存続の危機に直面した。
浅子は、夫・信五郎、そして加島屋の九代目当主となった広岡久右衛門正秋とともに、加島屋の経営を担うことになった。維新直後は全員がまだ二十代という「若き経営者たち」による新たな船出であった。
船場を中心とした大坂では、商家の妻は「御寮さん」と呼ばれ、主に家の中で主人や奉公人の世話をしながらその働きぶりを監督する、今でいう人事・総務部長のような役割を果たしていた。
また、当時の法律では、「夫と死別した場合」など一部の例外を除き、女性が戸主にはなれなかった。つまり、浅子が加島屋の代表者になることは法律上認められず、通常であれば家の中を取り仕切るに留まっていたのである。
しかし浅子は、その「御寮さん」の役割に留まらず、加島屋の事業にも積極的に関与し、自ら実践していった。こうして当主の久右衛門正秋、後見人の信五郎、そして浅子という三名による合議体制で、加島屋再建に向けた船出が始まったのである。
浅子の存在の大きさ
その中でも浅子の発言力が特に大きかったことは、後年の雑誌記事からも明らかである。
「而して浅子は加島屋唯一の君主として、上は店長より下は小僧に至るまで、任免黜陟(注:功績に応じて役職を上げ下げすること)に大権を掌握し、総会等には必ず自身に出席しつつ満場の視線を己れに集めるのみか、本支店とも時々巡視して業務の成績を検閲するなぞ、其の手腕の凄じさ、人をしてアッと謂はしむることが多い……」
「加島屋の興廃得喪に関わることは、すべて浅子の裁断を待たざるべからざる仕組みなので、従って浅子の勢力は飛ぶ鳥も落ちる次第……」
この記事は浅子を特集したものであるため、多少の脚色があるかも知れない。しかし、加島屋において浅子の発言力が大きかったことは想像に難くない。
ここまでの発言力を持つようになったのは、やはり加島屋を立て直そうとした時から、浅子の行動力と実績が際立っていたからであろう。
加島屋の立て直しに奔走する
廃藩置県直後の加島屋に残っていたもの、それは膨大な借財と、そして江戸時代から付き合いのある毛利・宇和島・伊達といった名家からの資金融通要請である。
そのため浅子の仕事も必然的に、「借金の整理」「返済の猶予」「資金の回収」「融資の断り」といった、極めて責任の重いものとなった。大の男でも躊躇するような交渉に、浅子は持ち前の行動力と胆力でこれに立ち向かう。
その頃のエピソードをひとつ紹介しよう。
家業の御蔵方はもと諸大名の御用達をなすのであるから、加島屋は長州の毛利家、平戸の松浦家、讃岐の高松家、伊予の宇和島藩などより借り受けた資本も中々に多かった所へ、先方が先方と来ているから借金の断りも一通りで行かない。そこで浅子はまた諸大名への断りも身一つに引き受け、しばしば訪れて随分凄い外交的手腕をふるったのである。しかるに一日例の言い訳に宇和島藩邸に伺候し、ご用人に面会して手元不如意の数々つぶさに訴えたところ、毎々の事ではあるし、ご用人甚だ面倒くさく思ったか、ろくに取り合わなかった。しかしこのくらいでそのままおめおめと立ち帰るような浅子ではない、是非とも猶予の承諾を得なければ引き下がらぬという覚悟で、追いやらるるまま足軽部屋に退き満身紋紋の荒くれ奴の間に一夜を明かし、とうとう目的を達して帰ったそうである。
また浅子自身も、後に当時のことをこう振り返っている。
その仕事というのは借財の据え置きの嘆願に歩き回ることなのです。当時深川から小石川の水道橋までよく参りました。人力車にも乗らずに徒歩です。それから毛利様のお屋敷が品川の八つ山にあった時分には三等汽車に乗って往来しました。汽車や汽船はいつも三等ばかりに乗っていました
浅子の実力が認められる
このように加島屋の立て直しに奔走した日々が、成果としてどのように現れたのか。それを示す資料が、大同生命に所蔵されている。高松藩松平家に宛てて出された借金の赦免願とそれに対する回答が朱筆された書状、「再願書」(一八八一(明治一四)年)である。
この書状は差出人が「広岡久右衛門」とあるとともに、「同信五郎 代アサ」と、本来名義人になれないはずの浅子の署名と押印がある。浅子が関係していた交渉であることは間違いない。
これによると、高松松平家に対する十二万二千六百円(現在の貨幣価値に換算すると約六億三千万円)の借金の返済を、その四割にあたる四万九千四十円分について、四分金(江戸時代に流通した金貨の一種)で即納することにより、残り六割を免除することを認めさせている。
この前後の交渉の過程が残っていないため詳しい経緯は定かでないが、決して楽な交渉ではなかったであろう。このようなタフな交渉を重ねて結果を残していくことで、久右衛門正秋や信五郎だけでなく周囲の人々も認めさせた浅子は、「加島屋唯一の君主」となっていったのである。
そして、加島屋は浅子主導のもと、新たなビジネスである炭鉱業に参入していく。