広岡浅子の歩み
(数え年で記載)
浅子誕生
1849年 嘉永2年 浅子1歳
京都・出水三井家(後の小石川三井家)の六代目当主・三井高益の四女として生まれる〔一〇月一八日〕。
1850年 嘉永3年 浅子2歳
大坂の豪商・加島屋の次男・広岡信五郎と婚約。
1853年 嘉永6年 浅子5歳
1854年 嘉永7年 安政元年 浅子6歳
1858年 安政5年 浅子10歳
1860年 安政7年 万延元年 浅子12歳
1861年 文久元年 浅子13歳
両親から読書禁止を言い渡される。
1862年 文久2年 浅子14歳
1863年 文久3年 浅子15歳
1864年 文久4年 元治元年 浅子16歳
加島屋に嫁ぐ
1865年 慶応元年 浅子17歳
広岡信五郎と結婚〔四月三日〕。
浅子の姉・春は大坂の両替商・天王寺屋五兵衛家に嫁ぐ〔四月九日〕。
1866年 慶応2年 浅子18歳
1867年 慶応3年 浅子19歳
新撰組の近藤勇と土方歳三が、借金の申し入れのために加島屋本家を訪れる。
1868年 慶応4年 明治元年 浅子20歳
1869年 明治2年 浅子21歳
夫・信五郎の父で加島屋八代目当主であった広岡久右衛門正饒が死去。信五郎の弟・正秋が、加島屋当主(九代目広岡久右衛門)を継ぐ。
1871年 明治4年 浅子23歳
廃藩置県により諸藩からの利子収入が途絶え、加島屋が危機に直面(浅子が「借金の整理」「返済の猶予」「資金の回収」「融資の断り」など加島屋の立て直しに奔走)。
1872年 明治5年 浅子24歳
1873年 明治6年 浅子25歳
1875年 明治8年 浅子27歳
1876年 明治9年 浅子28歳
長女・広岡亀子を出産。
1877年 明治10年 浅子29歳
1878年 明治11年 浅子30歳
五代友厚が、大阪株式取引所(現・大阪取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立。
1881年 明治14年 浅子33歳
1882年 明治15年 浅子34歳
夫・信五郎が大阪株式取引所(現・大阪取引所)の肝煎(理事、現在の取締役)に就く。
炭鉱経営
1884年 明治17年 浅子36歳
加島屋が石炭の販売代理権を獲得し、広炭商店を開業(社長は夫・信五郎)。炭鉱事業に進出。
1885年 明治18年 浅子37歳
1886年 明治19年 浅子38歳
加島屋が筑豊の潤野炭鉱を買収(名義は夫・信五郎)。
1888年 明治21年 浅子40歳
加島銀行を設立〔一月〕。信五郎の弟・広岡久右衛門正秋が頭取、夫・信五郎が相談役に就く。
1889年 明治22年 浅子41歳
夫・信五郎ら大坂の財界人と尼崎の財界人が共同出資して尼崎紡績(現・ユニチカ)を設立〔七月。初代社長は信五郎〕。
1890年 明治23年 浅子42歳
1892年 明治25年 浅子44歳
日本綿花(現・双日の前身)設立(発起人の一人に夫・信五郎)。
1893年 明治26年 浅子45歳
1894年 明治27年 浅子46歳
1895年 明治28年 浅子47歳
休鉱となっていた潤野炭鉱の再開発を開始。自ら炭鉱に赴き、ピストルを懐に鉱山に入り、鉱夫達と起居をともにして監督したと言われている。
女子教育と大同生命設立
1896年 明治29年 浅子48歳
成瀬仁蔵と出会い、女子高等教育の必要性を説く成瀬に大きく共感。女子大学校設立の支援を開始。
大隈重信・渋沢栄一・伊藤博文・西園寺公望ら、政財界の要人から女子大学校設立への協力を取り付ける。
1897年 明治30年 浅子49歳
潤野炭鉱が着炭に成功し、石炭の産出量が急増。
1898年 明治31年 浅子50歳
西園寺公望の側近であった中川小十郎が、成瀬仁蔵の紹介により、官僚を辞して広岡家の事業に参画。
1899年 明治32年 浅子51歳
潤野炭鉱を政府に売却。
加島屋が真宗生命の経営権を取得(夫・信五郎の弟・広岡久右衛門正秋が代表取締役社長に就く)。同年、「真宗生命」から「朝日生命(注:現在の朝日生命とは異なる)」に改称。
1900年 明治33年 浅子52歳
三井家より、東京・目白台の土地五千四百余坪が日本女子大学校に寄付される。
1901年 明治34年 浅子53歳
浅子の支援が実り、日本女子大学校(現・日本女子大学)開校〔四月二〇日〕。
1902年 明治35年 浅子54歳
朝日生命・護国生命・北海生命の三社が合併し、大同生命保険株式会社が創業〔七月一五日〕(初代社長は夫・信五郎の弟・広岡久右衛門正秋)。
事業引退後
1904年 明治37年 浅子56歳
夫・信五郎が亡くなる(享年六十四)。これを機に加島屋の事業を娘婿の広岡恵三(大同生命第二代社長)へ譲って経営の一線から退く。
1905年 明治38年 浅子57歳
1908年 明治41年 浅子60歳
朝日新聞の企画で行われた「名流碁譜(第六回)」で、女流囲碁棋士の第一人者・喜多文子と対局。
1909年 明治42年 浅子61歳
胸部の腫瘍摘出手術を受ける〔一月〕。
加島屋九代目当主・広岡久右衛門正秋が亡くなる(享年六十六)。
1911年 明治44年 浅子63歳
大阪教会にて宮川経輝より洗礼を受ける〔一二月〕。
1912年 明治45年 大正元年 浅子64歳
1914年 大正3年 浅子66歳
静岡県御殿場で夏期勉強会を主宰。以降、毎夏女性のための勉強会を開催。参加者は井上秀、小橋三四子、市川房枝、村岡花子など。
新聞『基督教世界』に「九転十起生」のペンネームで連載開始。
1918年 大正7年 浅子70歳
浅子の著書『一週一信』が出版。発行者は、浅子の薫陶を受け、婦人週報社を立ち上げた小橋三四子。
1919年 大正8年 浅子71歳
W.M.ヴォーリズが設計した東京・麻布の別邸にて亡くなる〔一月一四日。享年七十一〕。
日本女子大学校にて開催された浅子の追悼式では、列席者を代表して大隈重信が弔辞を述べる〔六月二八日〕。
*
ヴォーリズと一柳満喜子(広岡恵三の妹)が結婚。ヴォーリズが設計した明治学院のチャペルにて挙式〔六月三日〕。