浅子の囲碁対決 前編
「広岡浅子は囲碁が好きだった」というのは、知る人ぞ知るエピソードです。連続テレビ小説「あさが来た」(NHK)でも、主人公“あさ”が祖父とたびたび囲碁を打つシーンが登場したことを覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
碁は初段に五六目
「その技量は初段に五六目というところで、女性としてはまず珍しい方であろう。大隈伯には三目(ママ)置いて打ち、(中略)打ち始めると夜の更けるのも知らぬから、是には相手も折々閉口するとのこと」
そんな浅子の囲碁の実力がわかる、貴重な資料が残されています。一九〇八(明治四一)年、朝日新聞の企画で行われた「名流碁譜」。政財界の囲碁好きと当代を代表するプロ棋士が対局するという紙面企画で、その第六回に、広岡浅子が登場しています。対局相手は喜多文子(一八七五〜一九五〇年)。明治から昭和にかけて囲碁界の第一線で活躍し、後に「日本囲碁界の母」と称された伝説の女流囲碁棋士です。
今回はこの広岡浅子と喜多文子の対局を、公益財団法人日本棋院の全面的なご協力のもと、現役の女流プロ棋士のお二人に再現いただきながら、浅子の実力や棋風について語っていただきました。今回再現にご協力いただいたのは、現在大活躍中のこちらのお二人です。
万波奈穂三段
兵庫県出身。大枝雄介九段門下。
平成一八年入段、平成二〇年二段、平成二五年三段。日本棋院東京本院所属
平成二一年四月より「NHK杯テレビ囲碁トーナメント」の聞き手を担当。「おんな酒場放浪記」(BS‑TBS)にも出演中。
著書「世界一やさしい布石と定石」、「万波姉妹のぐんぐん強くなる囲碁Q&A(万波佳奈 共著)」(マイナビ)
(段位など平成二七年一二月現在)
長島梢恵二段
東京都出身。本田幸子七段門下。
平成一四年入段、平成二三年二段
日本棋院東京本院所属
平成二七年四月より「NHK杯テレビ囲碁トーナメント」の司会を担当。
(段位など平成二七年一二月現在)
再現対局は、日本棋院のご厚意で、各種タイトル戦でも利用される日本棋院「幽玄の間」をご用意いただきました。
それではプロ棋士の再現による、“豪腕の女性経営者”対“日本囲碁界の母”の対局をご覧下さい。
【再現対局の条件】
黒(広岡浅子):長島梢恵二段
白(喜多文子):万波奈穂三段
黒の三子局(浅子が三子を置いた状態で対局)
開始前 浅子の棋力はいかほど
──今から百年以上前に「名流碁譜」という『朝日新聞』の企画があり、その棋譜が残っております。今回はその対局を再現して頂こうというものです。打ち筋から浅子の人柄がうかがえるかどうか、浅子役(黒・先手番)の長島二段、それを受けられる喜多先生役(白・後手番)の万波三段それぞれの視点から、お話をうかがいたいと思います。さっそくですが、明治時代の棋譜は、現在でも参考になるのでしょうか?
万波:そうですね。「古碁」と言って、棋士はたいてい勉強しています。
──現在との違いはどういったものでしょう?
万波:先番(先に打つ)にはアドバンテージがあり、「コミ」と呼ばれるハンデを負うのですが、昔はそのハンデは少なかったり、そもそもなかったりしますね。
長島:ゆっくりした展開になることが多かったかも知れませんね。
──今回の対局では、実力的に劣る浅子が石を三つ(三子)置き、かつ有利と言われる先手の黒を持った対局となります。ところで、お二人は広岡浅子という人物をご存じでしたか?
万波:正直言うと最近まで知らなかったのですが、大同生命のアニメCMに登場する女性ですよね。歴史に埋もれていた人物だったとか。「あさが来た」は見ています。
長島:私もドラマは見ています。面白いですよね。
──なかなか普段はない形での取材となりますが、どうかよろしくお願い致します。
万波・長島:こちらこそよろしくお願いします。
堅実な序盤
長島:序盤の浅子は、すごく堅実な出足です。
万波:そうですね、手堅いです。
長島:相手の石を攻めるというよりも、しっかり身の回りを固めるような戦い方ですね。
──先に自分の陣地を作っておこう、という感じでしょうか?
万波:そうですね、形がすごくしっかりしています。それまでかなり打ち込んでいることがわかります。いい意味で「教科書通り」と言えるのではないでしょうか。
長島:この感じだと、相当打っていると思いますね……
万波:ここまでは相当良い打ち筋ですよ。今のアマ段位で言うと、五、六段はあるのではないでしょうか。新聞には「二級か初段」とあって、もちろん当時と今では段位も異なりますが、「もっとランクが高いのでは」との印象です。
長島:相当努力をしないと、ここまで打てるようにはならないと思います。インターネットなど、今でこそ囲碁を学ぶ手段は色々とありますが、当時はなかなか大変ですからね……
万波:しかも女性となると、同じくらいの実力の方は、あまりいなかったのではないでしょうか。
──浅子は、よく男性と碁を打っていたみたいですね。大隈重信とも打っていたようです。「浅子が三四子置くほどの実力だった」という記録が残っています。
万波:そうすると、浅子が初段で大隈が四段……というくらいの差があったということですかね。
──浅子は打ち出すと止まらなかったようで、相手が困ったという話もあります。
長島:負けず嫌いはドラマと同じだったのですね(笑)
五七手目までは完璧
長島:このあたりから徐々に、白を攻めていくという局面に入ります。浅子(黒)は攻め方も上手ですね。
万波:喜多先生(白)のさばき方も流石です。
──浅子はきっと本気で打っていると思いますが、対する喜多先生はいかがでしょうか?
万波:余裕はあると思います。ただ、攻め手の浅子に危うい石があればそこに付け入ることができるのですが、この段階では浅子が非常に堅実なため、付け入る隙がないかも知れません。
長島:格上であるプロと対局する時の打ち方として、浅子のように堅実に組み立てていくのは良い選択だと思います。
──下手の浅子が置き石をしていますが、最初のリードはまだ保っていますか?
万波:はい、少しは差が縮まっていますが、まだまだリードしていますね。
長島:喜多先生は、浅子が堅実に打つことをご存知であったかのような打ち方です。二人はこれ以前にも対局したことがあったのかも知れませんね。浅子の堅実な打ち回しに合わせて、喜多先生がゆっくりとした展開に持っていく。そして後半勝負……と考えておられたのかも知れません。
万波:ここで浅子がはじめて悪い手を打ちました。五八手目です。ここまでは、悪い手が一手もなかったのですが……
長島:これはあまり良くなかったですね。
──五八手目が悪い手だったことは、浅子にもすぐに分かったのでしょうか?
万波:どうでしょう。ただ、思い描いていた展開にならなかったな、とは思ったでしょうね。この段階で少しずつ差が縮まってきているのですが、徐々に追い上げられていることは分かると思います。
囲碁の打ち方から感じる、浅子の性格とは?
長島:序盤のここまで、戦いらしい戦いが起こらなかったので、大まかな陣地の形が決まりました。
万波:ここから、陣地を確定する中盤の局面に入っていきます。
──この時点での有利不利はいかがでしょうか?
長島:まだ少し、浅子(黒)の方が優位ですね。
万波:最初に浅子が三子置いていますが、それは地で言うと三十目のアドバンテージになります。この時点では、その差が半分くらいに縮まっていますが、依然浅子リードです。
長島:陣地を確定していく局面を「ヨセ」と言いますが、浅子のヨセはすごくしっかりしています。
万波:アマチュアの場合、どうしても相手の石の近くに打ちたくなります。相手が打った石に対して何か仕掛けたくなってしまう。でも、囲碁の良い手というのは、まったく離れた場所にあることが多いのです。そういった意味で、浅子は喜多先生の打った石の場所にこだわらずに、離れた所に打っています。
長島:浅子は盤面全体が見えていますよね。素晴らしいです。
──お二人のお話を伺っていると、よく伝えられている浅子の性格と、全然違うような気がします。
長島:そうなんですよ。「豪腕の女傑」と伺っていたのですが、もっとおとなしいというか……
万波:でも、結構そういう方って多いですよ。囲碁がお好きなある政治家の方は、強面で豪腕なイメージの強い方なのですが、すごく堅実で、守るタイプの碁を打たれます。そして碁盤から離れると、とても優しい方です。
長島:そういう方は案外多いかも知れませんね。
万波:もしかしたら浅子も、豪腕なのはビジネスの場だけで、普段は心やさしい方だったのかも……
長島:あと、企業経営者は、堅実な碁を打たれる方が多いです。私も指導碁をさせていただくことが多いのですが、優秀な経営者ほど堅実な碁を打たれるタイプが多いのかも知れません。
万波:囲碁は性格が出ると言われますので、豪腕に見えて実は堅実というのも、浅子の打ち方を見ていると納得できるものがありますね。
前半、浅子の堅実な打ち筋に感心しきりのお二人。さてここから局面はどう変わるのか……続きは後編で。
(取材協力 公益財団法人日本棋院)