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特集:渋沢栄一と広岡浅子
第二回 木村昌人先生が語る「渋沢栄一、そして広岡浅子」

はじめに

近代日本を代表する実業家・渋沢栄一(一八四〇年~一九三一年)と広岡浅子(一八四九年~一九一九年)。同時代を生きた二人の関わりについてご紹介するコラムの第二回目は、渋沢栄一研究の専門家をお招きしてのインタビュー企画です。渋沢栄一を深く掘り下げつつ、広岡浅子との共通点を探るというテーマでお話を伺いました。

木村きむら昌人まさと

関西大学客員教授、元渋沢栄一記念財団主幹(研究)。主な著書に『日米民間経済外交1905~1911』(慶應通信、一九八九年)、『財界ネットワークと日米外交』(山川出版社、一九九七年)、『グローバル資本主義の中の渋沢栄一―合本キャピタリズムとモラル』(共著、東洋経済新報社、二〇一四年)など。

渋沢栄一の功績とは

──木村先生、本日はよろしくお願いします。早速ですが先生からご覧になられて、渋沢が現代に残した功績というのは、どのようなものでしょうか?

木村:渋沢栄一というと、一般的には実業家・財界人・経済人というイメージが強いですよね。渋沢は約五〇〇の企業の設立に関わりましたが、他に関わったフィランソロピー(慈善活動や社会活動)は六〇〇と言われています。そのトータルを見ないと、渋沢の功績は語れないと思います。

新興国が経済発展する時は、国家による開発独裁だったり財閥や大資本に牛耳られたりして、商工会議所のような経済団体の力は弱いのです。ところが日本では何か起こると、経団連や商工会議所などの経済団体が経済界としてコメントを出し、国や地方自治体の政策を作る際に大きな影響力を持っています。それを我々は当然のことだと思っている。それを当たり前にしたのが、実は渋沢栄一で、これが彼のユニークな点ですね。

渋沢は日本の社会を民主的に運営していこうと考えていました。政治家・官僚・軍人……、それだけではダメで、社会が豊かになるためには経済活動を行っている人たちの意見が輿論よろんとして形成されなければいけない、というのが彼の発想でした。その発想を実現し、今の社会のような形にしたのは、渋沢の功績だと思いますね。

また、渋沢は一企業の垣根を越えて「社会にとって必要なものは何か」ということを考え、何のためにこの新しい事業をするのかという事業の目的を重要視していました。そしてその目的を達成するためには、どのような組織形態がいいだろうか。利益を出して民間企業でできればそれに越したことはないけど、どうも利益が上がりそうもないという時には、寄付に頼るのか、それとも国や地方自治体が行うのか……。形が決まるとその事業に関わる人、特に経営者の資質を重視しました。

彼が手がけたのは単に株式会社だけではなく、合資会社や匿名組合など様々な形態をとっています。事業の目的を遂行するために最も適した組織を、最後まで諦めず粘り強く作りあげていく。それが、渋沢の関わった五〇〇の企業と六〇〇のフィランソロピーという膨大な数に表れているのです。

──「最後まで諦めず粘り強く作りあげていく」ですか?

木村:はい。渋沢は絶対やるぞと決めたことは、ただお金を出すだけではなく、あらゆる人脈を使って広報活動しながら、何年かかってでも粘り強くやり遂げようとする。そういう強い意志と責任感を持った人でした。若き日に仕えた主君、徳川慶喜の復権などは、三〇年以上かけてやり遂げました。

慶喜と渋沢といいますと、出会った時のエピソードが印象的です。渋沢は一橋家家臣の平岡円四郎の推薦で仕官するのですが、「仕官する前に、主君となる慶喜様にお目にかかりたい」とお願いしたそうです。

御三卿である一橋家の殿様が“家来(しかも農民出身)”に仕官前に会うことは前例がありませんが、それを平岡が慶喜に話したところ、慶喜は「面白いじゃないか」と許したそうです。

しかし、さすがに屋敷の中で会わせることはできないから、慶喜が馬で外出した時に「そこにいるのが渋沢でございます」とたまたま見かけたことにして慶喜に声をかけてもらう……という形で二人は出会ったのです。その時、渋沢は慶喜が乗る馬の後ろを十町(約1キロメートル)も一生懸命走って追いかけたそうです。

──渋沢の粘り強い性格や慶喜との結びつきが感じられるエピソードですね。いずれのエピソードにしても、「お金を出すだけではなく、自ら動いて実現させようとし、粘り強く諦めない」という渋沢の個性は、広岡浅子にも通じるものがあると思います。

木村:はい、浅子さんは、「九転十起」という言葉を座右の銘とし、自らも炭鉱に赴くなど、その事業への取り組み方に共通点は確かにありますね。

いまなぜ渋沢が注目されるのか

──渋沢栄一は、これまでも何度か注目されたことがありました。しかし最近では新一万円札の肖像になることが決まり(二〇二四年度から)、また二〇二一年はNHK大河ドラマの主人公になるなど、改めて注目されるようになっています。これまでと最近の渋沢への注目の仕方、どこか違いはありますか?

木村:おそらく渋沢栄一への見方や評価が最も変化したのは、二〇〇八年のリーマン・ショック前と後でしょうね。

それまでにも、バブル崩壊など日本の経済が不景気になり、企業モラルが低下し、不祥事が発覚した時は、必ずといってよいほど「道徳と経済の合一」を唱えた渋沢が注目されたのです。

一方で、リーマン・ショック以降というのは、これまでの英米の市場至上主義・グローバル資本主義とも、そして中国のような国家資本主義とも違う「第三のグローバルな資本主義」を考えるヒントが、渋沢の「合本主義」の中にあるのではないかという大きな問題意識から発したものです。

渋沢の「合本主義」というのは、独占や過当競争にならない適度な競争環境の中で、出来るだけ多くの人からお金を集めて事業をしていこうという考えです。実際、渋沢はどんな会社でも一〇%以上の株は持たなかった。財閥や大企業主体のものとは違い、企業の事業目的を理解して「そういう事業ならお金を投じよう」という人に広く参加してもらい、民主主義的に企業を運営していこうというのが彼の「合本主義」の考え方です。

これからのグローバル資本主義を考えるときに、「SDGs(持続可能な開発目標)」や「公益資本主義」が注目されています。地球環境などの問題を資本主義で解決しようとしても、金融資本主義では格差が広がる。国家資本主義では窮屈で自由な発想は生まれにくい。それらの代わりにいい方法はないかと思案する中で、渋沢の考え方が注目されている。このような見方は、日本だけでなく欧米の経済学者からも出ています。中国では、儒教の概念を持って資本主義を成功させたという人物として、渋沢は注目され始めてきているのです。そこが一昔前と最近のブームの大きな違いですね。

──渋沢がそういう考えを持つに至ったのはなぜでしょうか?

木村:渋沢は農民から一橋家に仕える武士になったので、「四民平等」といいますか、やりたければ身分の上下なく誰でも国家社会に必要な事業に参加できる、そのような社会を実現させることをとても意識していました。一八六七(慶応三)年、渋沢はパリ万国博覧会出席のための欧州訪問団の一員として渡欧しますが、その時にフランスでは市民階級でも政治に参加できることを知り、さらにベルギーでは国王自らが日本へ鉄の輸入を勧める姿をみて、このことを強く感じたのです。

また、渋沢は漢学を非常によく勉強していました。漢学は論理的な思考を大事にします。渋沢の考えは「論語と算盤」という表現が有名ですが、浅子さんも、当時の共通の学問だった漢学を学びたかったけれども親に禁止されてしまった。広岡家に嫁いで何をしたかというと、漢学、それと算盤の勉強でした。こうした努力により、浅子さんが論理的な思考や企業家としての土台を身につけたとすると、ここでも渋沢と共通したものがあると思います。

日本女子大学校と渋沢、そして浅子

──先生のおっしゃる通り、共通点がどんどん出てきます。それでは二人が直接的に関わった日本女子大学校の設立に関して質問させてください。渋沢の日本女子大学校への関わりは、財務面や人の紹介と非常に多岐にわたります。

木村:実は渋沢は日本女子大学校の前にも、女子教育機関の設立にかかわっています。一八八六(明治一九)年に設立された女子教育奨励会、後に東京女学館となる組織です。ところがこの時は女学館の運営・経営が難しく、寄付金もなかなか集まらないので、女子の学校経営は大変難しいものだと感じていたようです。

後に日本女子大学校を設立する成瀬仁蔵と出会った時も、趣旨はよくわかるけれど財政面で大丈夫なのかと心配をしていました。そこで渋沢は、日本女子大学校設立運動の中で東京女学館と合併してはどうかという案を出しています。

先ほど紹介しましたように、渋沢は一旦やりますと約束したことは、何が何でもやろうとする人です。日本女子大学校の設立時も、財閥から彼の友人や知人に声をかけ、寄付金集めを行いました。また成瀬や大隈重信らとともに全国を回り、生徒募集と寄付金集めに奔走しました。これらは同校の財務委員としての渋沢の大切な役割でした。

──寄付金を募集するために成瀬と行動する、これも浅子と同じですね。

木村:浅子さんとは日本女子大の会合では常に会っていたと思いますし、共鳴する点も沢山あったと思いますね。浅子さんも非常に責任感の強い人で、新しいことにチャレンジしましたが、渋沢も同じです。その点はものすごく二人は共通していたと思います。それと行動力ですよね。二人とも粘り強く頑張る。

日本女子大学校の設立に関して、三井家による土地の寄付は決定的に大きかった。三井家を動かした浅子さんのことを渋沢も非常に評価していたと思います。渋沢が浅子さんのことをどのように評価していたかは、記録には残っていないのですけれども、私はそう考えています。

──渋沢と浅子、日本女子大学校の設立にここまで尽力したのはなぜでしょうか?

木村:やはり成瀬仁蔵という人の見識、そして女子教育への情熱を知って、成瀬の夢を実現させようと渋沢も浅子さんも尽力していたのではないでしょうか。

渋沢が事業に関わる時の特徴ですが、自分が事業に関わりつつ、それを誰かやってくれないかと探すんですね。そこで適した人が見つかってこの人ならば事業の目的を理解してやってくれると判断したら、その人に任せるという形です。

そんな渋沢にとって、女子教育について任せられる人物というのは成瀬仁蔵だったんだと思います。あそこまで情熱を持って女子教育に打ち込もうとする人はいない、そう思ったのではないでしょうか。

──渋沢にとって、女子教育への思いとはどういったものだったのでしょうか?

木村:渋沢の女子教育に対する考え方は、元々儒教的な「良妻賢母」だったのですが、長い生涯のうちで何度か変化しています。

最初は、欧米列強と対等な関係になるため、女性も欧米の貴婦人と同等の教養や品性が必要だ、という考えです。次に日本女子大学校が設立された後、大正時代になってからその「良妻賢母」の中身が変わりました。子供を立派に育てるためには母親の高い教養や見識が必要だ。そのためにも女性への高等教育が必要になる、という考えが強くなってきました。

それが昭和に入ってからは、講演でむしろこれからは女子に期待する。男子ではだめだという話も出てくるのですね。昭和になって恐慌や軍部の暴走などで、不安や閉塞感からどんどん日本がおかしな方向に向かっていく。そんな不安の中で、今後必要になっていく新しい人材として、女子教育に大きな期待をしたようです。

亡くなる直前ですが、渋沢は日本女子大学校の第三代校長を務めます。渋沢個人の寄付全体の十二%が、日本女子大学校に対してでした。このように、渋沢の女子教育に対する考えは、「良妻賢母」から始まり、最終的にはまさに現在の「女性活躍」社会まで期待するようになった。そのような変化が渋沢には見られます。

──先生の話を聞けば聞くほど、渋沢と浅子は似ていると思いますね。

木村:やはり近世から近代へという大きな時代の産物だろうと思います。渋沢にとって、浅子さんは日本女子大学校を卒業はしていませんけれど、理想の卒業生のモデルの一人だったと思いますね。

──本日は誠にありがとうございました!

最後に、今回の木村先生のインタビューを読んで渋沢栄一のことをもっと知りたいと思われた人に向け、木村先生にお勧めの本を挙げていただきました。

  • 『現代語訳 論語と算盤』守屋淳、ちくま新書
  • 『雨夜譚』岩波文庫
  • 『渋沢栄一を知る事典』公益財団法人渋沢栄一記念財団編、東京堂出版
  • 『渋沢栄一と「フィランソロピー」』全八巻、見城悌治・飯森明子・井上潤責任編集、ミネルヴァ書房(刊行中)
  • 『はじめての渋沢栄一 探求の道しるべ』渋沢研究会編、ミネルヴァ書房(二〇二〇年六月刊行予定)