特集:渋沢栄一と広岡浅子
第一回 資料からみる渋沢と浅子

はじめに

近代日本を代表する実業家・渋沢栄一。二〇二四年度から新一万円紙幣の肖像となることが決まり、また、二〇二一年NHK大河ドラマ「青天をけ」の主人公にもなり、注目が集まっています。

今回からシリーズで、渋沢栄一と広岡浅子について「大同生命文書」の新資料や専門家へのインタビューなどを交えながら、同時代を生きた二人にどのような接点があったのか、また、二人の生き方や考え方にみられる共通点などをご紹介します。第一回目の今回は、二人の接点についてです。

渋沢栄一について

まず、渋沢栄一とはどのような人物か、簡単にその略歴をご紹介します。

(参考資料:公益財団法人渋沢栄一記念財団編『渋沢栄一を知る事典』第3版)

渋沢栄一(一八四〇(天保一一)年〜一九三一(昭和六)年)(提供:公益財団法人渋沢栄一記念財団・渋沢史料館)

武蔵国榛沢はんざわ郡安部領血洗島ちあらいじま村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれた渋沢は、一橋家に仕え、一八六七(慶応三)年パリ万国博覧会に出席する徳川昭武あきたけに随行し、欧州の産業、制度を見聞しました。その後一八六九(明治二)年新政府に出仕し、大蔵省のナンバー3となる大蔵少輔しょうゆうまで歴任しましたが、一八七三(明治六)年退官し、実業界へと転身しました。

実業界に転じて後は、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の総監役、頭取となった他、王子製紙、大阪紡績(現在の東洋紡)、東京瓦斯など多くの近代的企業の創立と発展に尽力しました。

一九一六(大正五)年、渋沢は実業界から引退しますが、その後も社会公共事業や国際親善に力を注ぎ、その多大な功績により男爵、次いで子爵に叙せられました。生涯関係した企業は約五〇〇、社会事業は約六〇〇という膨大な数の企業・団体に関わり、また、女子教育にも理解を示していた渋沢は日本女子大学校の設立にも大いに尽力し、亡くなる直前には第三代の校長に就任しました。

『渋沢栄一伝記資料』からみた浅子

このように経済界の巨人として近代日本の形成に大きな役割を果たした渋沢ですが、浅子や加島屋のビジネスとどのような関係があったのでしょうか。

このことを調べる際に欠かせない資料が、『渋沢栄一伝記資料』(渋沢青淵記念財団竜門社編、渋沢栄一伝記資料刊行会刊。以下『伝記資料』)です。この『伝記資料』は、一九五五(昭和三〇)年から一九七一(昭和四六)年にかけて編纂された全六八巻におよぶ記録資料で、渋沢栄一の事績のみならず日本近代史研究の基礎資料ともいえる大著です。なお、この『伝記資料』は二〇一六年に渋沢栄一記念財団によりデジタルアーカイブ化され、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』として公開されています。

この『伝記資料』の中で広岡浅子の名前を調べたところ、登場する項目はすべて、日本女子大学校に関するものでした。また、『伝記資料』に確認できる渋沢が関わった企業・団体の中には、これらのように広岡家と関連するものも少なくありませんでした。

  • 大阪堂島米商会所:江戸時代の堂島米会所を一八七一(明治四)年に復活させ、一八七六(明治九)年に名称変更。後に堂島米穀取引所と名称を変更し、一九〇三(明治三六)年には広岡久右衛門正秋が理事長に就任。
  • 大阪株式取引所:現在の大阪取引所。一八七八(明治一一)年に五代友厚により設立される際、渋沢が後援した。広岡信五郎が肝煎(役員)に就任。
  • 若松築港会社:若松港(福岡県北九州市)を石炭の積出港として開発・運営することを目的として設立された会社。広岡信五郎が設立発起人。現在の若築建設。

一方で、『伝記資料』の渋沢の書簡や日記において、浅子個人と書簡を交わした形跡や、一対一で会ったなどの記録は確認できませんでしたが、加島屋のビジネスの中心にいた浅子と渋沢の間には、個人的に交誼を結んだ関係とは言わないまでも、財界人として確かな結びつきがあったことが分かります。

渋沢と浅子 日本女子大学校設立

それでは、『伝記資料』において広岡浅子の名前が出てくる、日本女子大学校の設立に関する二人の関係を詳しくみていきましょう。

日本最初の女子高等教育機関の設立を志す成瀬仁蔵に、最初に支援をした一人が浅子だったことはよく知られている事実です。

そして、浅子が協力することで設立運動が始まってから程なく、渋沢も東京において成瀬と対面し、女子大学校の設立に協力することになります。実は、このことを当時大阪に置かれた女子大学校創立事務所に伝えたのは、ほかならぬ浅子でした。

十一月九日(月)

東京広岡御夫人より来状(但同家宛内々)

要件

公爵 近衛篤麿 賛助員承諾

侯爵 蜂須賀茂韶 同上

  渋沢栄一  同上

  大倉喜八郎 同上

甲武鉄道会社長 三浦泰輔 同上

以上五名賛助員

『日本女子大学校創立事務所日誌』(一八九六(明治二九)年一一月九日)(提供:日本女子大学成瀬記念館)

また、渋沢はこの頃のことを後年このように語っています。

「私が成瀬校長と交わりを結ぶ様になったのは確か明治二九年だと思う。土倉庄三郎氏や広岡夫人等が専ら相談相手となって、大阪で種々尽力されていた頃、ある人の紹介で私は初めて成瀬先生にお目にかかった。」

(桜楓会編「創業当時の成瀬校長を憶ふ」『成瀬先生伝』 一九二七(昭和三)年四月刊)桜楓会:日本女子大学校卒業生の同窓組織

東京における渋沢の協力については、『創立事務所日誌』にも

「澁澤栄一女子大学設立につきおおいに奔走、東京都合すこぶ宜布よろしく云々」

と書かれるほど大きなものがありました。このような浅子や渋沢の協力を得て、設立運動が開始された翌年の一八九七(明治三〇)年三月二四日には早くも第一回の発起人会議が東京で開かれ、浅子と渋沢はともに創立委員に任命されます。この発起人会議が、資料上確認できる浅子と渋沢の最初の対面となります。この時のことを、『伝記資料』にはこう記しています。

「これより先栄一、大隈重信の紹介により成瀬仁蔵と会見し、女子大学校の設立計画を聞き、賛意を表し設立発起人たることを承諾す。是の日、第一回発起人会議に出席し創立委員に選ばれ会計監督に挙げられる。」

(『渋沢栄一伝記資料』二六巻 八七四ページ)

日本女子大学校の設立時に、浅子も大きな役割を果たしていたことは渋沢も認めるところで、渋沢は日本女子大学校の学生・卒業生たちにこのように話しています。

「成瀬さんが女子大学設立を主張をなすつたその時、最初の賛成者は此所にお出でになる大隈伯、三井さん、森村さん、土倉さん、広岡御夫人等でありました。」

「諸子は母校に報ゆるに何を以てせんとするか」(「花紅葉」(桜楓会会報)第九号 一九一一(明治四四)年五月)

このように、日本女子大学校設立運動の当初から成瀬仁蔵に協力していた渋沢と浅子。二人はこの後も、創立委員会で度々顔を合わせ、開校後も評議員として日本女子大学校の運営に関わり続け、卒業式や記念式典などで会しています。

「二回生卒業写真」(一九〇五(明治三八)年四月二〇日)(提供:日本女子大学成瀬記念館)

新資料発見

当社からも、渋沢と浅子の日本女子大学校への協力関係を示す資料が発見されました。

この資料は、大阪大学に寄託されている「大同生命文書」のひとつで、「広岡浅子様関係書類」と記された、浅子が行った寄付の領収書や個人の借用書の綴りです。その中に日本女子大学校宛の寄付領収書が七通あり、校長である成瀬仁蔵とともに、当時財務委員として会計全般の監督をしていた渋沢栄一の名前と印が押されています。

渋沢栄一と広岡浅子。日本の近代経済の基礎を築いた偉大な実業家と、近代日本を代表する女性実業家は、現在の女性活躍社会につながる未来をともに見据えていたのかも知れません。

今回ご紹介した「日本女子大学校寄付金領収證」などの資料を、二〇二〇年三月三一日から特別展示『大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”』にて展示いたします。詳しくはこちらをご覧ください。