特集:渋沢栄一と広岡浅子
第四回 渋沢と浅子のビジネスの関わり・石炭と港

はじめに

いよいよ二〇二一年二月一四日から、NHK大河ドラマ「青天を衝け」の放送が開始されます。ドラマの主人公である渋沢栄一は、生涯に五〇〇の企業、六〇〇の社会事業に関わったという、近代日本の実業家でも図抜けたスケールの持ち主。渋沢の活躍がどのように描かれるのか、とても楽しみにしています。

さて、このコラムでは渋沢栄一と広岡浅子の関わりをシリーズでご紹介していますが、第四回は二人のビジネスでの関わりについて、新たに判明したことをご紹介します。舞台は九州、キーワードは「港」です。渋沢と浅子が、港とどのような関わりがあったのか? まずは浅子と港の関わりについてみてみましょう。

現在の若松港

浅子の石炭ビジネスと港

一八八四(明治一七)年、加島屋の再建を担う広岡浅子は、新たな事業として当時最先端のエネルギー産業であった石炭に着目します。九州・筑豊の有力炭鉱主である帆足ほあし義方よしかた、そして大阪株式取引所(現在の大阪取引所)の頭取を務めた吉田千足ちたると協力して広炭商店を設立し、その本社を若松(現在の福岡県北九州市若松区)に置きました。この広炭商店は「中央資本家と筑豊の炭鉱主が共同で事業を行った最初期の事例」とされています。

広岡浅子(一八九九(明治三〇)年ごろ)

浅子はただ地場の炭鉱主と提携して石炭を全国で販売する……というだけではなく、海外(中国)に輸出しようとしました。筑豊の石炭を海外に輸出したこと、これもまた浅子が初めて行ったとされています。

この時に問題となったのが、産出された石炭をどのような手段で海外まで輸送するか、でした。当時、筑豊の炭鉱から掘り出された石炭は“川ひらた”とよばれる小さな木船に積まれて遠賀川おんががわを下り、洞海湾どうかいわんの若松で大きな船に積み替え、全国に送られていました。さらに石炭を海外へ輸出するためには、若松から門司まで運んでさらに大型船に積みかえて海外へと運ぶ……という方法を浅子は考えました。つまり、浅子の構想した石炭の海外輸出には、まずは若松港、ついで門司港という二つの港が必要だったのです。

若松港、門司港位置図

若松築港会社

浅子が広炭商店を立ち上げたころ、若松港はまだ十分な港湾設備がありませんでした。筑豊での石炭産出の急激な増加を受け、地元でも洞海湾の築港開発を推進しようという動きが起きます。それを受けて一八八九(明治二二)年、石野寛平(一八四八―一九二一)を初代社長とする、若松築港会社(現在の若築建設株式会社)が設立されました。

若築建設が運営する「わかちく史料館」には、若松築港会社の創立資金を記録した「創立費金収入簿」という資料が残されています。実はここに、浅子の夫である「広岡信五郎」の名前があります。合計三五円(現在の約二〇万円)が、信五郎の名義で出資されていました。

「創立費金収入簿」(提供:わかちく史料館)

名義は信五郎となっていますが、これは当時の法律では死別した場合など一部の例外を除き、女性が戸主、つまり、法律上の代表者になることはできなかったため、夫である信五郎の名義で行ったのであり、実際には浅子がビジネスを主導していたことが各資料から明らかになっています。したがって、この若松築港会社への参画も、浅子の判断によるものと考えてよいでしょう。

また『若築建設一三〇年史』によると、一八八九(明治二二)年に提出された「筑前国遠賀郡若松港築港願」に発起人として名を連ねた総勢八一名中、地元九州以外の発起人はわずか二名のみ。そのうちの一人が、「広岡信五郎」でした。

さらには、わかちく史料館が所蔵する「株券交付領収書綴」には、若松築港株式会社の株を一九〇〇(明治三三)年に三〇〇株、一九〇二(明治三五)年に七〇株、「広岡信五郎」の名義で購入した記録が残されています。

石炭ビジネスへの参入から実に一〇年以上にわたり、浅子は若松港のインフラ整備に関わり続けたことが、これらの資料から判明したのです。

「株券交付領収書綴」(一九〇二(明治三十五)年 提供:わかちく史料館)

若松港の救世主・渋沢栄一

このように筑豊の地場炭鉱主や浅子らの協力の元で設立された若松築港会社ですが、築港工事に着手した直後から不況の影響を受け、株主募集が進まないという事態に直面してしまいます。経営不振に陥った若松築港会社社長の石野寛平は、一八九二(明治二五)年、上京して財界の有力者に支援を依頼してまわります。石野が頼った財界有力者の一人が、渋沢栄一でした。

渋沢栄一(提供:渋沢史料館

渋沢は、港湾設備が地域発展に果たす役割を重視していました。例えば東京市区改正の検討に際しても築港を「第一着手とすべし」と述べるなど、全国各地の築港事業に関与しました。石野の相談を受けた渋沢は支援を快諾。翌一八九三(明治二六)年には若松築港会社の相談役に就任するとともに、大株主として経営を支援しました。これを機に、若松築港会社は軌道に乗ったのです。渋沢は一九〇四(明治三七)年一〇月に辞任するまで相談役を務めており、この約一〇年間、浅子と渋沢はともに若松築港会社に関わっていたことになります。

門司港と門司税関

このような九州の港湾インフラに対する渋沢と浅子の関わりは、若松港だけではなく門司港でもみられます。広炭商店の設立から間もない一八八五(明治一八)年五月、浅子は門司から石炭を輸出するために臨時の税関を設置することを、炭鉱事業のパートナーだった吉田千足名義で願い出ます。こうして「門司長崎税関出張所」が設立され、門司からの石炭海外輸出が始まりました。

このころの門司も、のちに浅子が

門司がまだ原野であった頃、率先して店を出して輸出を始めました。

(「六〇余歳にして漸く心霊の修養を懐ふ」『家庭』第二巻第一一号、一九一〇年 日本女子大学校桜楓会)

と述べたように、十分な港湾設備がない中で先んじて輸出を行ったのでした。

それから四年後の一八八九(明治二二)年三月、門司港でも築港会社設立の動きが起こると、渋沢は築港会社に出資し、相談役となりました。この門司築港会社の設立を機に、門司港は特別輸出港に指定されて石炭の輸出港として急成長し、日本の玄関口の一つとして繁栄していくことになりました。

旧門司税関(一九一二(明治四五年))(提供:北九州市)

このように、若松港そして門司港において、渋沢と浅子はその創業と発展に大きく関わっていたことが明らかになりました。しかし二人の姿勢は好対照だったともいえます。

浅子は加島屋の立て直しという明確な目的をもって、新規事業への参入として石炭ビジネスに関わりました。地場炭鉱主との協業、石炭の海外輸出、築港会社への出資など、先駆的な動きをしたといっていいでしょう。しかしながら、広炭商店やその後の日本石炭会社が短命に終わったことからも、その試みは大きな成功を収めることはありませんでした。石炭ビジネスにおける浅子の成功は、その後自ら炭鉱経営に携わることになった潤野うるの炭鉱の再開発まで待たねばならず、それが浅子の座右の銘である「九転十起」の経験へと繋がるのです。

一方の渋沢は、浅子のような新規事業としてではなく、別の視点での関わり方でした。それは渋沢の持つ“公共事業”に対する意識です。港湾設備が日本の近代化に果たす役割を見越し、また、その事業を成功させることができる環境や人材を得たからこそ、渋沢は築港会社への出資と協力を決断しました。そういう意味では、まさに浅子の先駆的な働きがあったからこそ、渋沢の協力を導き出したといえるのかもしれません。

おわりに 安川敬一郎がみた浅子と渋沢

浅子と渋沢、この二人の活躍を同時代につぶさに見つめていた人物がいます。その人の名は、安川敬一郎(一八四九―一九三四)。安川は地場の炭鉱主から身を起こして事業を拡大させ、現在の安川電機や九州工業大学など多くの企業・団体を設立した、九州でも指折りの財界人です。安川も若松築港会社の創立発起人の一人であり、また、有力財界人として渋沢とは非常に親しくした人物でした。

安川敬一郎(出典:『撫松余韻』 国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

その安川が後年、自身の事業を回顧する中で、浅子と渋沢、それぞれについて言及しています。

浅子について

帆足君で思い出すが、同君に資金を供給し、のちには自ら炭鉱経営の陣頭に立った広岡浅子という女丈夫があった。三井家から大阪の加島一家に嫁に来た人で、(中略)当時は石炭鉱業がどんなものであるかを知る者は少なく、こんなものに投資するのは非常に危険だと考えられていたから、浅子女史の親戚は極力反対をした。しかし、一旦決心した女史は敢然周囲の反対を退けて帆足(義方)君に資金を供給した。然るに帆足君の事業はうまくゆかぬ。反対者に対する責任上、女史も大阪で安閑としてはおられぬ、遂に九州へ乗出して自ら経営に携わることになった。

(中略)女史がすぐ隣区の潤野をやっていたので度々会見したが、自ら織り機に働くなど実に甲斐甲斐しく立ち回り、到底大家から来た嫁御寮よめごりょうとは思われぬくらいであり、私の記憶では彼女と並び立つ女傑はまず無いと思うくらいである。

(石炭時報「昔日話断片」 一九二八(昭和三)年)
一部表現を平易に改めました

渋沢について

二五〇〇トン級の汽船でも若松港に自由に出入りできるようになったのは、もとはといえば渋沢子爵の後援があったからである。これらはみな、渋沢子爵の『人の為に謀りて忠ならざるか』(他人のために相談にのった時、本当に誠意をもって考えてやったか)という考え方・姿勢の賜物であり、このことは、地方にいる私たちにとって忘れてはならない好意と、深く感じ入っている。

(「竜門雑誌」第四八一号 一九二八(昭和三)年)
一部表現を平易に改めました

自身が立志伝中の財界人である安川からみても、浅子と渋沢、二人は傑出した個性を持った実業家だったのです。

参考資料

  • デジタル版『渋沢栄一伝記資料』(公益財団法人渋沢栄一記念財団)
  • 若築建設株式会社『若築建設一三〇年史』(二〇二〇年)
  • 杉山謙二郎「明治の企業家 杉山徳三郎の研究 筑豊石炭一括販売所について」(千葉商大論叢 第四〇号 二〇〇三年)