【第四章】大同生命の誕生とその後の浅子3/3

晩年の浅子

事業継承者、広岡恵三

明治維新を迎えた時は、いずれも二十代であった加島屋の若き経営者たち。大同生命を創業した一九〇二(明治三五)年には、すでに正秋が五十九歳、信五郎は六十二歳、そして浅子は五十五歳(いずれも数え年)となっていた。加島屋の事業をより盤石なものとするために事業の継承者を考える時期に来ていたが、浅子が出産したのは亀子のみで、唯一の男子である信五郎と側室ムメ(小藤)の子、松三郎もまだ幼かった(一八八八年生まれ)。そのため、年齢的にも亀子の婿養子として迎える人物に期待が寄せられるのが自然な流れであった。この頃、浅子も成瀬仁蔵に婿養子の紹介を依頼しており、

祇園(清次郎)を初め忠実な家臣を得て安心しておりますが、養子に然るべき人物がいなくては、と心配しています

(一八九八(明治三一)年五月二一日付 成瀬仁蔵宛広岡浅子書簡 所蔵:日本女子大学)

と胸の内を述べている。

こうして亀子の娘婿として、また加島屋の事業継承者として迎えた人物が、子爵・一柳ひとつやなぎ末徳すえのりの次男、一柳恵三だった。学習院を卒業し東京帝国大学に在学していた恵三は、家柄といい、期待される能力といい、事業継承者として相応しい人物だった。一九〇一(明治三四)年、大学在学中に亀子と結婚し、広岡恵三となった。後の話となるが、恵三は三十年以上にわたり大同生命第二代社長の座に君臨する。また亀子との間には、多恵子、八恵子、佐恵子、喜一、美恵子と一男四女に恵まれた。

有望な事業継承者を迎え、いよいよ浅子たちが事業に区切りをつける日が近づいて来た。

広岡恵三

信五郎の死と事業引退

一九〇四(明治三七)年七月、夫・信五郎が六十四歳でこの世を去る。喉頭がんによる闘病の末の死だった。浅子最大の理解者であり、自身も大阪株式取引所(現・大阪取引所)肝煎きもいり(現在の取締役)、日本綿花(現・双日そうじつ)創立発起人、尼崎紡績あまがさきぼうせき(現・ユニチカ)社長など数々の要職を務め、大阪財界にも存在感を示していた信五郎の死を転機に、浅子は事業を娘婿の恵三に任せて一線から身を引く決意を固める。後年浅子が語っていたように、当時はまだ大同生命も創業間もなく、日露戦争も終結していなかったので、加島屋の事業は必ずしも順風満帆とは言えなかった。しかし浅子が引退を躊躇した形跡はない。女性でありながらも自分が事業に邁進したのは夫・信五郎あってのもの――そんな浅子の強い想いを感じさせるような、潔い引退だった。

こうして「いささか閑散の身」(広岡浅子『一週一信』)となった浅子は、その後の人生を女性の地位向上のための活動に専念し、多くの寄稿文を新聞に発表するなど、旺盛な活動をする。その代表的な事例をみてみよう。

愛国婦人会と奥村五百子

浅子は引退前の一九〇一(明治三四)年、愛国婦人会の評議員に就任し、さらに一九〇三(明治三六)年には、同会大阪支部の設立に参画した。

「愛国婦人会」とは、奥村五百子いおこが設立した、戦死者の遺族や傷病兵の生活を助けるために、募金活動や救護事業などを行った団体である。現在の佐賀県唐津出身の奥村は、浅子に勝るとも劣らぬ女傑ぶりで、たった一人でこの愛国婦人会を立ち上げた女性だった。浅子と奥村は大隈重信の紹介で知り合ったが、初対面ですぐに意気投合し、「万事相談相手として互いの長所を認め合う仲」となった(大久保高明『奥村五百子詳伝』 愛国婦人会 一九〇八(明治四一)年)。

大阪支部での浅子は、上流婦人のサロン的要素が強かった当時の愛国婦人会に対して寄付活動よりも授産事業(失業者などに仕事を提供し、生活の道を得させる事業)を重視することを主張し、職業訓練による女性の自立など、経営者ならではの視点でこの事業に力を注いだ。それまで一人で各支部の指導や演説に奔走していた奥村だったが、浅子に対しては、

日本中で私を休ませてくれるのは大阪だけだ。大阪に行くと広岡さんが、私が万事を引き受けてやるからその間はふだんの疲れを休めるように寝ておれと言ってくれる

「埋もる才能もかくて花咲く―愛国婦人会大阪支部の活動―」(『婦人週報』五巻四号 、一九一九(大正八)年)

と、全幅の信頼を寄せていた。

奥村五百子(国立国会図書館)

浅子と奥村、この二人の女傑は「無二の親友」と言われ、一九〇七(明治四〇)年、奥村が京都の療養先で息を引き取った時には、大阪から駆けつけた浅子がその最期を看取っている。

日本女子大学校との関わりと言論活動

また浅子が設立に尽力した日本女子大学校でも、同校の卒業生組織である桜楓会おうふうかいを同校出身者ではない外部の人間が支援していくことを目的に、一九〇七(明治三九)年、「桜楓会補助団」を結成し、自ら幹事となった。また浅子は、機会を見つけては、積極的に同校の講義を受講している。一九〇八(明治四一)年、現在の通信課程にあたる『女子大学講義録』が発行された時、浅子は真っ先に申し込んで受講者となった。さらには成瀬仁蔵が行う実践倫理の講義(全学生必修の成瀬による特別講義)にも参加している。

浅子は、主に日本女子大学校の機関誌を中心に、しばしば寄稿して積極的な発言をしていた。程なく一九〇八(明治四一)年からは、週刊新聞『婦女新聞』にも寄稿を開始する。

その論旨は快刀乱麻を断つ如く、時として容赦なく女性の現状を批判するものが多かった。これらの批判には、当時の女性が置かれた境遇に満足できない浅子ならではの叱咤激励が込められているのだが、このストレートすぎる発言は、時には周囲の反感を買うこともあった。同校在籍時に浅子の講演を聞いていた平塚明子はるこ(後の平塚らいてう)は、後にこう述べている。

学校の創立委員として大変功績のあった人ということですが、熱心のあまりでしょうがガミガミ学生を叱りつけるばかりか、校長までビシビシ文句をつけ(中略)せっかちそうにしゃべっているのを聞いてからはいやな人と思うようになりました

(平塚らいてう『元始、女性は太陽であった(上)』 大月書店、一九七一(昭和四六)年)

キリスト教との出会い

しかし、そのような浅子にも転機が訪れる。それは浅子が後に「新たな人生」と語ったように、六十歳を越えて洗礼を受けたキリスト教との出会いである。

もともと浅子がキリスト教に帰依するきっかけとなったのは、自身の病だった。

浅子には三十年来、胸部に乳がんと思われるしこりがあったが、この頃からそれらがこぶし二つ分ほどの大きさとなったため、一九〇九(明治四二)年一月二二日に切開手術を行った。手術前は万が一を覚悟して、関与していた事業や身辺の整理を行なった浅子だったが、手術が無事成功に終わったとき、「天はなお何をかせよと自分に命を貸したのであろう」(広岡浅子『一週一信』)と感じたという。

もう一つのきっかけは、成瀬仁蔵から紹介された牧師・宮川経輝つねてるの言葉である。様々な書物を読み好奇心旺盛な浅子だったが、宮川から宗教について問われて十分に答えることができず、「これから謙遜な生徒となって宗教を学ばねばならない」と宮川に諭される。「自分の知らない宗教を学ぶため」という、いかにも浅子らしい理由から、宮川に師事して宗教哲学、そして聖書を学ぶとともに、キリスト教への理解を深めることとなった。

さらに軽井沢の三井三郎助別荘での避暑の最中、「霊的経験」を感じた浅子は、そこでキリスト教の信仰を確信する。こうして浅子は、一九一一(明治四四年)一二月二五日のクリスマスに、宮川が牧師を務める大阪教会(大阪市西区)で洗礼を受けた。当日の受洗者十名のうち、九名は同教会の日曜学校に通う十代の男女だった。受洗者のなかで飛び抜けて年輩の浅子に、宮川はこのような祈りの言葉を述べた。

この中の一人の老婦人は我が国維新の際、種々なる困難を一身に担い、家政のため、また国家事業のため苦心奮闘を続け、晩年に至り、同性の向上発展を促さんため、非常に尽力を致しました。

しかしこれは物質上の事であり、齢六〇という多くの人は退隠なすべき時にあたり、この老婦人は奮然起って神の道を学び、残り生涯を神に捧げる決心をなしました。この老婦人の前途に過ちなく、世のため、人のため尽くし得る力を与え給え

(広岡浅子『一週一信』(一部要約)婦人週報社、一九一八(大正七)年 )

クリスチャンとしての浅子の言動

このように六十歳を越えてクリスチャンとなった後、浅子は心境の変化についてこう語っている。

私も六一歳まではそういう人々と同類で、後進者のみを鞭撻叱咤しておりましたが、その誤りを悟ってから、すぐに主義を改めました。もはや老年の、しかも遅鈍なる質に関わらず、自分も若い人とともに進もう、死ぬまで進んで已まない態度をもって、わが人格を築きたいと願うようになりました

「指導者の覚醒 人を教えて自ら捨てられることを恐れればなり」(『婦人週報』、一九一七(大正六)年四月)

浅子は、寄稿や講演の場をキリスト教系のメディアや団体に移し、さらには伝道活動で全国を巡回した。その代表的なものが、矯風会きょうふうかいでの活動である。

キリスト教婦人矯風会での浅子

矯風会は、禁酒運動や廃娼運動など婦人福祉の推進を目的として、一八八六(明治一九)年に発足した団体である。会頭の矢島楫子かじこと浅子は親交があり、矢島はあえて会員とならなかった浅子に「会友」という特別な肩書きを与えた。

浅子は年に一度開かれる矯風会の全国大会には毎年出席して参加者に向けて講話を行い、またしばしば機関誌『婦人新報』に、自らの考えを記した。当時この『婦人新報』で編集を担当していたのが安中花子、後の村岡花子である。

また矯風会での活動で特筆すべきは、「会は決して一人のためのものではない。会員が集まる団体なのだから、全てを組織的に充分な理解と運用を明らかにする必要がある」として、浅子が財務面の充実を訴えたことだった。また自らそれを実践するため、矯風会に対して寄付を行った。浅子の活動を、矢島は「広岡さんは、会をって下さっていた」(「吊故広岡浅子女史」(『婦人新報』二五九号、一九一九(大正八)年))と述懐している。

『基督教世界』

一九一七(大正六)年、浅子は当時大阪で発行されていた伝統のあるキリスト教系新聞『基督教世界』で連載を開始する。その際、浅子は本名を名乗らず「九転十起生きゅうてんじゅっきせい」というペンネームを用いた。後にこの内容をまとめ、冒頭に自伝を加えて発行されたのが、浅子唯一の著書『一週一信』(一九一八(大正七)年 婦人週報社)である。

このように、クリスチャンとなってからも積極的な行動と発言を続けた浅子。その集大成ともいえるものが、静岡県御殿場・二の岡に建設した別荘で開催された、若い女性たちとの勉強会だった。

御殿場・二の岡での勉強会

浅子は以前、学問の方法についてひとつの持論を語っていた。

私は本年六一歳であるが、講義録の発刊を聞くや否や、第一着に入会し真に学生となって今も勉強している。ついては今回の講義録も、ただいたずらに新聞雑誌でも読む気で読み流しては成らぬ。一々読んだ事を実地に当てはめて、これを考え、応用し、みな自己の品性、人格を作る助けとせねばならぬ。私は常々この講義録を、過去の経験にあてて読んでいるゆえ、非常に興味があって有益である。ただしそれよりなお有益なのは、一人一人でするよりも、互いに今日のごとく集合して解らぬ処は調べあい、助け合って自らを修養するとともに、互いに進歩することを計らねばならぬ

「広岡浅子刀自とじの御話」(『桜楓会通信』第二五号、一九〇九(明治四二)年九月二五日発行)

ここで挙げた「みなが集合して調べ合い、助け合って自らを修養する」場を実践したのが、御殿場・二の岡での合宿勉強会である。

一九一四(大正三)年七月二日の読売新聞に、「一団の若き女性とともに簡易生活を試みる広岡女史」と題した記事が掲載されている。そこには、浅子が御殿場の二の岡に「公共的家屋」を建設中であることを紹介するとともに、

本年は浅子夫人が一団の女学生と共にこの家に自炊制度の極めて簡易な生活を送るそうです

と、御殿場で合宿を行っている様子が紹介されている。このようにして始まった勉強会であるが、その内容はというと、午前に講師を呼んで聖書の講義を行い、午後は自由時間で各々が過ごし、夜はまた参加者同士で語らうという、共同生活を中心とした大らかな合宿だった。

浅子の死の直前まで行われたこの合宿の参加者には、広岡郁子(正秋の娘)や三井寿天子といった浅子の親族のほか、井上秀、村岡花子、小橋こばし三四子みよこ守屋もりやあずまといった日本女子大学校や矯風会の活動で知り合った女性たち、さらには名古屋から参加した市川房枝など、政治・教育・ジャーナリズム・文学、それぞれの分野で活躍した女性たちの、若き日の姿があった。

二の岡で撮影された、浅子と合宿の参加者たち。前列左から二人目が浅子、その右が村岡花子(提供:赤毛のアン記念館・村岡花子文庫)

この合宿での浅子の様子を、参加者の一人、小橋三四子はこう書き残している。

大理石もて刻まれたような正しい鼻の上に、慈愛の瞳を笑ませて、若き人々のために祈りを捧げられた。「そうやろか……、けったいなことやなあ……」刀自は、ハイカラな洋装の口からなめらかな大阪弁を洩らした、それがいかにも面白い印象であった

「逝ける広岡浅子刀自 七十有一年の略歴」(『婦人週報』第五巻三号 、一九一九(大正八)年)

二の岡の勉強会で参加者が見たのは、以前のような叱咤激励する女性実業家ではなく、若い女性たちとともに学び、ともに語らう、穏やかな老婦人の姿だった。浅子は最後まで「実践の人」であり、また「学び続ける人」であったといえよう。

九転十起生の最期

一九一九(大正八)年一月一四日。浅子は東京・麻布の別邸でその波瀾に満ちた生涯に幕を下ろす。享年七十一。死の二日前まで、訪問客と社会情勢を論じ、天文学について質問をしていたという。

私は遺言を残しません。常日頃言っている事が、全て私の遺言です

浅子はそう語っていたという。

東京と大阪で行われた浅子の葬儀には、多くの参列者が駆けつけた。また新聞でもこぞってその死を報じ、彼女の偉業を伝えた。さらに小橋が創刊した『婦人週報』、矯風会の機関誌『婦人新報』、浅子が九転十起生のペンネームで寄稿した『基督教世界』では、それぞれ誌面を大きく割いて、追悼特集を掲載した。

浅子が設立に尽力した日本女子大学校では、校長の成瀬仁蔵が、浅子の後を追うように一ヵ月半後の三月二日に亡くなった。さらには後継者の恵三が病床にあったこともあり、浅子の追悼式が開催されたのは六月二八日のことだった。そこでは浅子や成瀬とともに女子大学校設立に奔走した二代校長の麻生正蔵、さらには浅子の行動を間近に見続けていた「愛弟子」で、同校の家政学部教授となっていた井上秀らが、浅子を偲んで思い出を語っている。

追悼式で弔事を述べたのは、女子大学校の創立委員長も務めた大隈重信。大隈は、浅子のことをこう語っている。

浅子夫人は常に『たとひ女子であっても努力さえすれば男子に劣らぬ仕事ができるものである、また力があるものである。而して人間は、その境遇を切り開いて自分の思う理想に達することのできるものである』という固い信仰を持っておられました。

(中略)

このように浅子夫人は、男子も及ばぬような偉大な力をもって全ての事にあたられましたので、ある一部分の人からは多少誤解も受けましたが、しかし浅子夫人の活動は実に目覚ましいもので、ただにその広岡家のためのみならず、社会的の活動は本当の手本としなければなりません

「天性偉大な廣岡夫人」(『家庭週報』第五二四号、一九一九(大正八)年)

何度挫けそうになっても決して諦めず、激動の時代を駆け抜けた女傑、広岡浅子。常に学び続けることの大切さを知り、常に行動・実践する人であり続けた浅子。その浅子が自らの人生をこう語っている。

九度転んでも十度起き上がれば、前の九度の転倒は消滅して、最後の勝利を得るものである。斯くの如く、転んで起き上がって歩くのでなければ、本当にしっかりした歩みではない。そしてすべての迫害四囲の習慣、失敗など、これらの万難を排して得た月桂冠は、真の光輝ある勝利者の頭上にのみかざされるのである。

「真我を知りて婦人自ら立て(三)」(『婦女新聞』 五〇二号、一九〇九(明治四二)年)