浅子没後一〇〇年
浅子は炭鉱に「ピストル」と『源氏物語』をもっていった⁉︎
(高野晴代教授に聞く『広岡浅子「草詠」』)
はじめに
今年二〇一九年は広岡浅子が没して一〇〇年となる節目の年です。浅子が創立に尽力した日本女子大学校(現・日本女子大学)では、二〇一六年に見つかった広岡浅子の「和歌草稿」を全文翻刻し口語訳と解説を加えた、『広岡浅子「草詠」』(高野晴代監修 翰林書房)を刊行しました。
浅子和歌草稿「草詠」について
当サイトのコラムでも二〇一七年にこの和歌草稿をご紹介し、「恋」の歌をいくつかご紹介しました。
今回の書籍は、当サイトのコラムで紹介した「恋」だけではなく「春」「夏」「秋」「冬」「雑」六冊全ての和歌を翻刻し、それぞれに口語訳と説明を加えた、いわば「完全版」というべきものです。この書籍に監修として携わられ、和歌草稿の全首を事細かにご覧になられたのが、日本女子大学文学部日本文学科教授(文学部長)高野晴代先生です。今回は高野先生に「浅子和歌草稿」についてお話を伺うことができました。高野先生のご専門は王朝文学とのことで、その専門的見地から、浅子の和歌の特徴や深い教養について語っていただきました。
高野晴代
日本女子大学文学部日本文学科教授。主要編著に『小町集 他』(和歌文学大系18『伊勢集』校注・解説 明治書院)、『源氏物語の和歌』(コレクション日本歌人選008 笠間書院)など
※コラム中で紹介する和歌や口語訳はすべて、高野晴代監修『広岡浅子「草詠」』(翰林書房 二〇一九年)からの引用ですが、一部ルビや注釈はコラム用に追加しています。
浅子の人生がわかる和歌
──高野先生、本日はよろしくお願いします。さっそくですが、監修をなさった先生が浅子の和歌草稿で一番興味深く思われたのは、全六冊の中でどの部分でしょうか?
高野:詠歌状況が分かって面白いというのは、「雑」の一冊ではないでしょうか。和歌には詞書という、作者が歌を詠んだ時の場所、事情などを簡単に説明する文章が和歌の右側に記されています。「雑」に収められている和歌には具体的にどこに旅したかがわかる歌や日本女子大学に関わる歌、さらに信仰について詠んだ歌など、状況を明らかにした詞書が記されていてとても興味深いと思いました。彼女がどう生きてきたのか、はっきりわかるという意味で、注目すべき一冊だと思います。
──浅子の人生が浅子自身によって詠まれているというのは非常に興味深いですね。それでは、和歌を通して浅子の性格や、和歌への取り組み方などがわかるようなところはありましたでしょうか?
高野:個人的にとても面白いと感じたところがありまして、それは「冬」の部の状況です。冬をテーマに詠むのは、『古今和歌集』(以下『古今集』)などでは四季の中でも少ないのです。やはり多いのは春や秋で、夏や冬は少ないというのが伝統的ですが、浅子の場合、冬のお正月を対象にたくさん歌を詠んでいます。たとえばこの歌なのですが、
「冬」二百四十三番「新年会友」
新しき言葉の花も咲きにけり
年の初めの今日の団居に
彼女はこの「団居」という言葉が好きなようで、他の歌にもたびたび登場します。この歌の意味は、「新年に友に会いました、友に会って会話が弾み、新しい言葉の花も咲いたことだよ、今年の初めの楽しい団欒に」というもので、優しさを表した歌なのですけれど、「言葉の花も咲いた」という表現がとても浅子らしい、「お友達が来て言葉が弾む新しい年なんだ」という心情がわかる歌だと思いました。広岡浅子という女性のもつ、優しさであったり友達をとても大事にしたりする、そんな個性が感じられる歌が入っていることが、私が「冬」を推す理由なのです。
しかも、浅子はひとつの言葉を何度も歌に使って、歌を勉強しているようですね。今ご紹介した「団居」という言葉も、繰り返し他の歌にも用いているのですが、「団居」の他にも「霞」「山の端」という言葉もよく使われています。そうやって、自分の歌の技量をより高めようとしていったという彼女の姿勢を、私は強く感じます。
高野:『草詠』全体を読んでみてわかることは、これは草稿であって完成系ではなく、この『草詠』の前に思ったことや感じたことを書きつけるノートのようなものもあったと思うのです。そのノートにある程度溜まったら、「これは「冬」にいれよう」、といった風にして草稿に書いていったのではないかと思います。この草稿に書かれた歌はある程度歌をつくった順番に書かれており、さらにこれは将来、私家集(個人の和歌を集めた作品集)的なものを作ろうとしていたのではないでしょうか。同じ言葉をたくさん使って歌を詠もうと試みているのを読むと、そのような意欲があったのではないかと思っています。
それぞれの草稿の後ろに何も書かれていないページがあるのは、どんどん書こうと思っていたからなのですよね。このように完成系ではなくて、それを作るための草稿として書いたものがこのような形で残って後世の私たちが目にしたという、とても幸運なことだったと思っています。
浅子の歌への思いはとても強いものがあったのではと思います。
浅子がお手本にした平安時代の女性
──浅子の和歌の作風で、特徴的なところはありますか?
高野:『草詠』を読んでみますと、浅子は香川景樹の流れを汲む桂園派から歌を学んだと想像されます。桂園派というのは当時の明治時代の歌壇(歌人たちの社会)の中心的存在で、浅子の実家である三井家も、桂園派の和歌を学んでいました。桂園派は『古今集』を大事にしているのですが、浅子の草稿には『古今集』の代表的人物である紀貫之や凡河内躬恒の詠歌を参考にしたところもあり、『古今集』の影響を少なからず受けていると思います。
さらに特徴的なところがあります。『古今集』において、最多の歌が収録されている女性歌人は伊勢(平安時代を代表する女性歌人)なのですが、浅子はその伊勢の歌をとても参考にしています。私も王朝文学を研究する者として伊勢の歌の注釈をつけましたので、草稿を一通り読んだときに、真っ先にこのことを感じました。草稿から例を挙げてみましょう。
「春」四十一番歌「帰雁」
咲き匂ふ花の都を後にして
何急ぐらむ帰る雁がね
これは『古今集』三十一番歌である伊勢の歌、
春霞たつを見捨てていく雁は
花なき里に住みやならえる
と同じテーマ、情景の歌と考えられます。きっと浅子は「自分ならどうやって詠むかな」と考えながら作ったのではないでしょうか。
また、テーマだけでなく技法にも、伊勢の歌から学ぼうとしたところがあります。伊勢の歌の『古今集』六十八番歌
「亭子院の歌合の時詠める」
見る人もなき山里の桜花
ほかの散りなむのちぞさかまし
「見る人もない山里の桜花よ、他が散ってから咲いたらいいのに」という、桜を思うとても可愛らしい歌なのですが、この「見る人もなき」という表現に注目してください。普通ですと初句の「見る人も」と五音で切れるべきですが、この歌では「見る人もなき」と特殊な詠法を使っている、この技法を、浅子もやろうとします。
「夏」百二十七番歌「山残花」
訪う人もなき山里に春暮れて
寂しく残る花のひともと
また「秋」二百七番「秋夜友思」という歌にも「訪う人もなき」という表現が出てきています。このように、「○○もなき」という伊勢の表現を、浅子は面白いと思って使ってみようとしたのではないでしょうか。伊勢の歌に憧れのようなものを持ちながら、自分がどうやってその技量に近づけるか、という試行錯誤を重ねている。これはとても面白いと思いました。
このように浅子の和歌の作風や技法といった点からは、当時の日本歌壇のオーソドックスなことを学び、かつ伊勢の歌をお手本に鍛錬を重ね自分のものにしようとし、そのためにいくつかのワードを積極的に使って実践もする。こうしてみると、浅子はとても真面目で頑張り屋さんだったということが感じられます。
『源氏物語』を炭鉱にもっていった⁉︎
──素晴らしい学習姿勢ですね
高野:そうなんです。私が強く申し上げたいのは、よく浅子は幼少期に本を読むことを禁じられていたと言われていますが、それで終わったりしてはいない点です。彼女は女性実業家として忙しい時でも、和歌の勉強のために必ず本を読んでいて、しかも『源氏物語』や日本の古典もかなり読んでいた。それが和歌草稿から感じられるのです。『源氏物語』を読んでいたというのは、例えばこのような歌があります。
「春」十三番歌「田家椿」
夕顔の 類とや見む玉椿
荒れし垣根の庵に匂ひて
源氏物語に「夕顔」という巻があります。光源氏が、夕顔が咲く粗末な家に気を留めて声をかける、そこには光源氏が後に心を寄せる夕顔が住んでいた、というお話です。浅子のこの歌の意味は「田舎の家だが椿が美しく咲いている、その家を夕顔としてみようか」という内容で、これは『源氏物語』を知っている人でなければ詠めない歌であり、この歌を読む人も『源氏物語』を介在させて歌を理解することになりますね。ここから浅子は『源氏物語』をしっかり読んでいたということが分かると思います。
浅子はピストルをもって炭鉱に入ったという有名なエピソードがありますが、私は、彼女は『源氏物語』や『古今集』も携え、そして歌を書きつけるための筆も持っていた、と思うのです。浅子は「少しも学問をしたことは御座いませんから」と語っていますが、実際の浅子は和歌を詠むための教養を充分に身につけて、これだけたくさんの歌を頑張って詠んだのです。歌人ではない、実業家の浅子ですが、和歌に対して本当に真面目に勉強して、表現を磨く種々の試みをする、そのような創作や鍛錬の過程が、和歌草稿から見られます。
浅子は「和歌で想いを伝えられる人」
──日本女子大学に関する歌も多く詠んでいたようですね
高野:草稿の「雑」の三百四十六番歌に「桜楓会(日本女子大学の同窓生組織)のはたらき愛でて詠める」という詞書の歌があります。
散りやすき桜紅葉の名にも似ず
永遠の命の友どちの宿
他にも「真善美を教育部、家政学部、和英両文学部に喩える」という歌もありますね。浅子の日本女子大学への想いというのを強く感じます。自分が多くの本を読んで学べたように、女性がいつでも学べる環境を作りたいという願いが、女子大学設立に奔走する原動力になっていたのかも知れません。
日本女子大学成瀬記念館にも、浅子から贈られた和歌の色紙が所蔵されていますが、草稿にはない歌もあります。おそらく浅子は行事や視察などで日本女子大学に来た際、即興でパッとこのような歌を詠んで、色紙に書いて贈ったりしたのでしょう。贈られた方も、さぞかし嬉しかったことでしょうね。
「真如」
おほけなく身にあまりたるうれしさを
心の奥の光にぞみる
浅子は和歌をつかって想いを伝えられる人、そういう力を、自らの努力によって獲得した人だった、それが和歌草稿からわかるのですね。今回刊行した書籍では、和歌を通して浅子の歴史や、どういうことを思ったのかという人生観がわかります。広岡浅子は素晴らしい、魅力的な人だったというイメージを、この本を読んだ人に思っていただければと思います。
──本日は貴重なお話をありがとうございました。
おわりに
高野先生のインタビューは、いかがでしたでしょうか。浅子が『源氏物語』や『古今集』といった平安時代の文学をしっかり読んで自らの教養としていたこと、そして浅子の和歌を真摯に学ぼうとする姿勢が和歌草稿から見て取れる、という先生のお話がとても印象的でした。
ところで、刊行された本書を一通り読んで、印象に残った歌があります。
「春」五十三番歌「梅問鴬」
朝日影匂へる園の梅が枝に
宿しめて鳴く鶯の声
注目したのは「朝日」という言葉です。高野先生がインタビューでお話しいただいた「団居」や「霞」や「山の端」のように、「朝日」も五、六首ほど使われています。
加島屋が真宗生命の経営を引き継いだ際、社名を朝日生命(現在の朝日生命とは異なる)と変えました。また朝日、護国、北海の三生保が合併して誕生した大同生命の創業時の社章は旭日、つまり「朝日の光」をモチーフにしたものです。もしかしたら、こういったものも浅子の発案なのかもしれませんね。